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第五十七回ビジネス烈伝 / Isuzu Philippines Corporation 高祖 肇さん
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比人が作る、比人のためのナショナルブランドに育てていきたい

Isuzu Philippines Corporation Director&President
高祖 肇さん

1957年岡山県出身。法政大学社会学部卒。’80年いすゞ自動車に入社。国内営業、販売店などを経験し’85年から海外業務部。フィリピンは’99年〜’03年のアメリカ、’10年〜’12年のインドネシアに次ぎ3カ国目の駐在。’15年より現職。大学時代はヨット部に所属。仕事の合間に母校の監督として後輩の指導をしていた時期も。

〈座右の銘〉
少し子供っぽいですが「信頼と情熱」です。仕事を進めていくときにお互いの信頼関係がないと成立しませんよね。ですから、いかに相手に信頼してもらえるかが大事です。それから相手を動かすには情熱ですよね。これは私がヨット部の監督時代によく学生に言っていた言葉です。

フィリピンでのトラック販売台数シェアナンバーワンのいすゞ。トラックメーカーが作る質実剛健な造りのSUVも着実に人気を伸ばし、人気は高まる一方。フィリピンで創業20周年を迎え、今後はジプニーに代わる公共輸送で貢献していきたいとも考えている。フィリピン人に愛され続けるメーカーであるため、サービスの拡充に力を注いでいる。

 

 

編集部

 

学生時代はどのように過ごされていましたか?

 

高祖さん

 

高校生の頃は新聞記者になりたいと考えていました。高校では新聞部に所属して、『生徒会を斬る』というような社会派の記事を書いていましたね。大学時代は海が好きであったのと、4年間大学生活を過ごすのに何か1つ筋の通ったことをやり遂げたいという思いがあり、体育会のヨット部に入部しました。これで人生が変わりましたね。

当時、森田健作主演の湘南が舞台のドラマがありました。高校時代は岡山の田舎で育ちましたので、そういうのを見て湘南の海に憧れていたわけですよ。更に、入部前の新人勧誘で先輩に誘われて、江ノ島のヨットハーバーで生まれて初めてヨットに乗せてもらいました。帰り際に先輩から「お前センスがあるな!」と褒められ、すっかりその気になって海の世界に足を踏み入れたのです。

いざ入部してみると、ドラマと違い現実はいたって厳しくて、1年間のうち180日くらいは合宿所にいて、三浦半島から昇る朝日を見ながら出廷準備をして、伊豆半島に夕日が沈むまで練習していました。 大学のキャンパスは市ヶ谷で、合宿所は江ノ島ですから、大学時代はヨットに専念していたということですね。 法政大学は結構強くて、全日本に何度も出場しています。2000年と2004年には大学日本一になりました。卒業生の中には、北京オリンピックとロンドンオリンピックにOG/OBが出場し、昨年のアメリカズカップにもOBが選手として出場しました。卒業していすゞ自動車に入社後は、OBとして母校のコーチや監督を務めていました。 平日は会社勤めをこなしながら、休日は学生と海の上で過ごす生活でした。 私が監督になったとき、日本一のチームを作る為に、大学と話をして推薦入学を始めました。ですので、インターハイや国体は必ず優秀な選手のリクルートに行っていました。 そんなわけで自分の子供たちの面倒は妻任せで、子供の入学式や運動会に行ったことがありません。休日になるとほとんど海の上で過ごしていましたからね(笑)。

 

 

編集部

 

コーチや監督をされていた期間はどのくらいですか?

 

高祖さん

 

1980年の大学卒業、いすゞ自動車入社してから1999年にいすゞアメリカの副社長としてロスアンゼルスに駐在するまで、約20年間近くチームを率いていました。 この間は家庭をあまり顧みず、平日は仕事、休日はヨット部と、子供と一緒に遊ぶことはありませんでしたので、駐在が決まったとき、家族は喜んでいましたね。 ロサンゼルスには家族帯同で4年間駐在しました。 振り返るとアメリカでの4年間は家族の絆が強く結ばれた時期でした。

 

 

編集部

 

いすゞ自動車に入社されたきっかけは?

 

高祖さん

 

大学2年生の頃、中国のヨット協会の人が視察で江ノ島のヨットハーバーに来ていました。その人が持っていたカメラが一眼レフではなく、二眼レフでした。 それを見て中国ではまだ古いカメラが使用されているのを知り、日本のビジネスチャンスは海外に広がっていると感じました。新聞記者から宗旨替えをしまして、海外で日本の製品を売る仕事に興味が出てきました。
その後、就職活動が始まりました。いろんなメーカーを考えましたが、当時のいすゞ自動車はGMと提携しており、極東アジアにおけるGMグループの核として事業展開を始めようとしていましたので、『海外で日本の製品を売りたい』という自分の夢に近づけると思いお世話になることにしました。

 

 

編集部

 

入社後はどのような部署で働かれていましたか?

 

高祖さん

 

最初は国内の営業でした。製品を売るということを考えると、まず国内営業を経験せねばと考え、日通さんや佐川急便さんなどの全国規模の大型フリートのお客さまを担当するセクションに2年間勤務しました。 次に国内の販売会社にセールスマンとして 3年間出向しました。 当時、いすゞ自動車はトラック拡販の為に、メーカーの若手社員を現場に出すプログラムが始まり、その選抜で私を含めた同期4人が福岡のトラックのディーラーに出向しました。 ディーラーですので、お客さまと接する最前線です。 しかもトラックはプロのお客さまが相手なので、新入社員同様の青二才の私たちにとって、トラックの商売の難しさを叩き込まれる修行の場となりました。 同時に、営業活動の中で『信頼の大切さ』『人の情けのありがたさ』を経験できた良い思い出もありました。
あるとき、土建屋さんの社長さんに製品を購入してもらいたく、アプローチをしていました。土建屋さんは朝早く現場に出かけてしまうので昼間に営業に行っても会えません。ご自宅兼事務所に夜討ち朝駆けで訪問するわけですが、最初はなかなか社長が会ってもくれません。 何度も訪問を重ねる内に、段々とご家族とも仲良くなり、社長の奥さんが「もう主人は行ってしまいました。ご飯でも食べて行きますか?」と朝ごはんを食べさせてくれるようになりました。 そうこうしているうちに、社長さんから見積もり依頼があり、何度も価格条件の交渉の末やっと注文をいただきました。 ところが3日後に電話がかかってきました。どうやら社長さんのもとにそれまで使用していたメーカーの営業マンが来て「なぜ、いすゞを買うのですか。いくらで買いましたか?もっと安くしますからキャンセルしてください。」と懇願してきたそうで、商談が振り出しに戻ってしまいました。 その日の夜にマネージャーと一緒に社長の自宅を訪問し、再度厳しい交渉していると、嬉しいことに当時小学校6年生のお嬢さんが「お父さん、高祖さんかわいそうだから買ってあげて!」と言ってくれました。 これが私にとって生まれて初めて販売したトラックとなりました。言い換えると、私の営業人生の出発点です。 その後もこの会社には3年間で3台のトラックを買っていただき、36年経った今でもそのご家族といまだにお付き合いさせていただいています。 

 

 

編集部

 

福岡でセールスマンを3年間された後は?

 

高祖さん

 

出向が終わるときに人事の担当者が福岡まで面談に来てくれました。そのときに初めて「海外希望」を伝えました。本社で大手の運送会社さん向けの営業を2年間、ディーラーでセールスマンを3年間経験したので、次は海外へ行きたいと思いました。ただ、英語ができなかったですし、貿易の知識もありませんでしたので、いきなり海外営業は難しいと考えていました。そこで海外業務という部署を希望しました。当時の私の業務は、工場で完成した製品の輸送、通関、船済みといった物流業務でした。 今では海外の工場で生産される自動車の部品はほぼ100%コンテナ船で運ばれますが、当時は貨物船(在来船)が主流でした。 物流費の合理化、物流品質の向上の為に海外のお客さまと協業でコンテナ化を進めていきながら、早く自分も海外で活躍したいなあと思っていましたね。
海外物流管理士の資格を取得し、通算で13年くらい海外物流の仕事をしていました。 今はフィリピンでトラックを売っていますが、現在の私たちのお客さまのほとんどは物流関連のお仕事をされていますので、このときの経験が今も大変役に立っています。
海外物流関連の仕事の後は、1997年にいよいよ営業にデビュー。 いすゞが台湾に展開した生産販売拠点を担当しました。 できたばかりの事業体でしたので、工場の立ち上げや販売支援の為に日本から頻繁に出張し、後にパスポート見ると年間130日くらいは台湾にいました。

 

 

編集部

 

1999年からはいすゞアメリカですね。

 

高祖さん

 

そうですね。 ロスアンゼルスのいすゞアメリカに4年間勤務しました。当時はインディアナにいすゞのSUV生産工場、オハイオにGMといすゞ合弁のエンジン組み立て工場、ミシガンにはGMのトラック組み立て工場があり、それらの工場への部品の調達、生産管理業務、製品の輸送と幅広い業務を担当する他、米国内の補給部品物流、更にインディアナ工場で生産されたSUVの海外(含む日本)営業も担当していました。 拡販の為に中南米や南米の販売会社を回っていましたが、スペインの植民地であったこともあり、フィリピンと似た印象が残っています。特に、パラグアイの首都アスンシオンの何とも言えぬ街の雰囲気が、今でも忘れられません。  2001年の9月11日の同時多発テロのことは今でも忘れられません。
 当日出社すると米人スタッフが皆でテレビにかじりついており、そこで初めて事件のことを知りました。映像を観ていても、映画かドラマのようでとてもこの世の出来事とは思えませんでした。事故直後には、米国内の港湾、空港、鉄道、主要幹線道路がほとんど麻痺しましたので、各工場に搬送する生産用部品の供給を支えるため、スタッフ総出で休みなしの日が続きました。

 

 

編集部

 

アメリカの後は?

 

高祖さん

 

2003年にアセアン営業部長として本社に帰任しました。いすゞ自動車が経営的に最も厳しかったのが2000〜2001年の頃で、本社に戻ってきたのはその直後になります。 ちょうどタイで新型D-MAXを立ち上げた翌年で、販売台数がどんどん伸びていました。 2004年からは世界に向けてタイからの輸出が始まるなど、タイのピックアップ生産がいすゞ復活の旗頭になろうとしていました。 毎月の販売会議でも増産要求が続き、生産能力増強の為に新工場を立ち上げるなど息の抜けない日々が続きました。当時フィリピンも担当していましたが、なかなか出張の機会が無く、その分今は頭の先からつま先までフィリピンにどっぷりと浸かっています。
2010年〜2012年には、いすゞアストラモーターインドネシアの副社長としてジャカルタに駐在しました。いすゞ自動車と現地財閥アストラグループの出資比率が半々で、生産と販売の両方を行っていました。 当時のインドネシアは景気がこれから良くなり、自動車全需もタイを抜こうとしているときでした。
2年間のミッションは、一つは、それまでいすゞが出遅れていた大型トラック市場に切り込むための新型車展開プロジェクト。 もう一つは、インドネシアを含めたアセアンの市場拡大に向けて、アセアンのトラック生産拠点となる新しい工場の建設です。用地の選定にはかなり苦労しましたが、用地購買契約のサインをしたところで辞令が出て日本へ異動になりました。

 

 

編集部

 

日本のどちらに行かれましたか?

 

高祖さん

 

ジャカルタから九州です。九州沖縄をテリトリーにしたトラック販売会社であるいすゞ自動車九州の社長として福岡に赴任しました。それまで海外部門から国内の販売会社に移動するケースはありませんでしたが、私のあとに続いて、最近では国内と海外間での人事の交流が頻繁に行われるようになりました。
いすゞ九州は、28の拠点があり、従業員は約1,000人。トラック・バスの販売とアフターサービスを生業としています。いすゞフィリピンの従業員は700人ほどですので、それより大きい規模でしたね。
国内ではトラック4社が厳しい競争を繰り広げていますので、シェアを伸ばすことは簡単ではありません。とにかくセールスマンとお客さまを訪問し、いすゞを理解してもらい、自分を信頼してもらう。地道ではありますが、初め売ったトラックのことを思い出して、九州沖縄を歩き廻りました。おかげで、私がいた3年間は毎年シェアを伸ばすことができました。
同時に力を入れたのが、アフターサービスの体制を強化することです。トラック事業において新車を売ることはもちろん大事ですが、それと同じくらいあるいはそれ以上に大切なのがアフターサービスです。お客さまに車を長く使っていただき、お客さまの稼働を止めない、それがいかに大切か、いすゞ自動車のフィロソフィーを改めて学ぶことができました。 
九州で3年間過ごしたあと、再びアセアン戦線への赴任命令が出て、2015年4月にいすゞフィリピンに着任しました。

 

 

編集部

 

マニラに着任されたのはいつ頃ですか?

 

高祖さん

 

2015年4月ですね。 いすゞフィリピンに社長として赴任して、今にいたります。 それ以前にも、いすゞ本社でアセアンの営業を担当していた頃、出張でフィリピンに来ることがあり、2008年まで幾度か来ていました。当時はフィリピンの販売台数は7,000台~10,000台前後でしたね。アジア全体の販売台数から見ると小さな市場でしたし、シェアも取れていたので、担当はしていましたが頻繁には来ませんでした。弊社の本社工場の隣にはいすゞ自動車が100%出資するIAMCというトランスミッション工場があります。IAMCではタイのピックアップトラック用のマニュアルトランスミッションを作っています。いすゞ自動車の経営の柱であるタイのピックアップ事業を支える工場ですので、当時は弊社を訪れる回数よりも、IAMCを訪問する回数の方が多かったように記憶しています。
しかし、7年ぶりに訪れたフィリピンは、想像よりはるかに大きく進化していました。街を走る車も新しくなり、人々の顔も明るくなったように感じました。特に、当時市内を走っていた日本から輸入された路線バスがすっかり姿を消したのが印象的でした。
赴任して早や3年が経とうとしていますが、最近のいすゞフィリピンの販売台数は2014年が14,000台、15年が22,000台、16年が27,000台、17年が30,000台と順調に増えております。

 

 

編集部

 

着任されてから右肩上がりですね。どんな理由がありますか?

 

高祖さん

 

一番の理由はSUVのmu-Xが販売成功したということですね。mu-XはSUVでありながら、トラックメーカーのいすゞ車らしくパワフルかつ居住性の良い車になっているのがヒットした理由だと思います。トラックメーカーとして、最も大事にしているのはお客さまの稼働です。トラックは乗用車と違って稼ぐための車で、1日でも止まってしまうと稼ぎがなくなってしまいます。非常にシビアですよね。そういうDNAを持ついすゞ自動車ですから、他社の車に比べて少し味付けが違います。車は壊れにくいです。壊れてもすぐ修理できるように造られています。
販売台数が増えたもう一つの理由は、トラックの販売台数の伸びですね。フィリピンの物流を支える信頼される足として、中古車から新車への代替えが進んでいます。また、建築関連のトラック需要も急速に伸びて来ており、この勢いはここ数年続くと考えています。

 

 

編集部

 

mu-Xをモデルチェンジしたのは2014年ですね?

 

高祖さん

 

そうです。2014年6月にローンチしました。売れ行きは予想を大きく上回り、とても好調でした。タイで製造している車ですが、タイよりも売れまして、2016年、2017年とフィリピンが世界で1番mu-Xを販売しています。 フィリピンのお客さまはSUVが好きですし、大家族ですから人数が乗れる広い車というのが受け入れられたのだと思います。それから燃費が良くて、壊れない、というのも特徴です。ここまで販売が伸びたのは商品の良さ、マーケティングの良さ、それを支える販売店さんの努力の賜物です。

 

 

編集部

 

どのタイプの車が売れ筋ですか?

 

高祖さん

 

台数としては、mu-Xが大きな割合を占めています。2017年の販売台数は30,086台で、そのうち13,157台がmu-Xです。トラックは前年比で20%増の7,500台でした。フィリピンはこれからの経済成長に合わせたトラック需要の拡大が予想されており、世界各国にあるいすゞの拠点の中でも大きな期待をされています。

 

 

編集部

 

同業他社と比較しての強みとは?

 

高祖さん

 

ブランド力です。フィリピンのトラック事業において、いすゞのブランド力は強いです。いすゞは、フィリピンでトラックのシェアが20年間続けてナンバーワンです。
フィリピンでは新車のトラック需要は半分くらいではないでしょうか。残りの半分は日本からの中古車なのです。その日本から入ってくる中古車のうち、7割がいすゞのトラックです。なぜなら壊れにくく、たとえ壊れても直しやすいからです。そのおかげで、いすゞのトラックは頑丈で長持ちするという良いブランドイメージができています。

 

 

編集部

 

その一方、課題はありますか?

 

高祖さん

 

安価トラックで攻勢をかけてくる中国勢に対抗する必要があります。現在も中国のトラックが増えつつありますが、今年からアセアンと中国のFTAが発行されて、ますます中国勢が私たちの脅威になると考えております。それに立ち向かう為に、価格だけではなく、品質やアフターサービスの体制で勝負します。弊社はフィリピン全国に41拠点あり、ネットワークが確立されています。また、部品の供給力を高めるため、昨年補給部品センターをタギグ市に新設しました。同時に販売店によるメンテナンス体制の整備も進んでいます。プレミアムトラックブランドとしてのプレゼンスを堅持していきたいと思います。
また、トラックドライバーやお客さまのメカニックへの教育にも力を入れています。とりわけ運転手さんへの教育はニーズが非常に大きいです。運送会社の社長さんとお話しすると「良い運転手がなかなかいません。どなたか知りませんか?運転手を紹介してくれたら車を買いますよ。」と言われます。新車、中古車にかかわらず、車を取り扱う運転手さんの技術が未熟ですと車が壊れる可能性がありますし、事故を起こすと甚大な出費になります。修理をしている間は車が動きませんので稼ぐこともできませんよね。そのような経営上のリスクを排除するための、より技術の高い運転手さんが欲しいというニーズが増えています。また燃料代の値上がりを背景に、省燃費運転に対するお客さまのニーズも大きくなってきています。このようなニーズにしっかりとお応えできるような、商品以外の体制を早く整えて、中国車と一線を画すことができるように準備を進めております。

 

 

編集部

 

フィリピンは渋滞がありますし、事業を行う上で問題点も多いと思いますが、まず物流に関してはどう感じていますか?

 

高祖さん

 

物流の量という観点では、これからも増え続けていきます。人が1億人以上いて、これからもっと内需が増えるでしょう。内需が増えると当然商品を運ぶ量も増えます。但し、物流量が増えた分トラックの台数を増やすのではなく、これからはいかに無駄なく効率的に運べるかがお客さまの課題になると思います。物流の効率化はすなわち渋滞の解消にも貢献すると考えます。かといって、フィリピンでは列車による輸送はこの先も望めません。私たちトラックメーカーとしては、お客さまと一緒にフィリピンの物流に貢献できるよう汗を流したいと思います。 

 

 

編集部

 

物流以外では、どんな問題点がありますか?

 

高祖さん

 

産業構造上の問題でいうと、内需が増えて消費するものが増えていきますが、残念ながら製造業が未成熟なので輸入に頼ることになります。輸入したものを売っていくということになります。国家としての持続的な成長の為には、フィリピンで生産されたものをフィリピンで消費し、更に輸出に繋げ外貨を稼ぐことが大きな課題です。フィリピンが更に豊かな国になることをお手伝いする為にも、弊社としてはフィリピンでの生産を継続、拡大させていきたいと考えています。
また車両だけでなく、トラックの場合は架装の分野の国産化も課題として捉えておく必要があります。残念ながら現在のフィリピンの架装事業はQCD共に不十分です。なぜなら、フィリピンはもともと中古車を日本から輸入していて、ハンドルを取り換えるだけで販売しています。日本からの中古車には品質の良いリアボディーが付いてきますので、当地でボディを作るという発想が乏しかったのです。弊社としては、そのような部分も事業として今後取り込んでいきたいと考えています。

 

 

編集部

 

政府や役所の手続きに関してはどうですか?

 

高祖さん

 

手続きには時間がかかることが珍しくないですし、その方法が変わることもありますよね。赴任したばかりの2015年に、ユーロ4導入の問題に行き当たりました。政府が突然「2016年からユーロ4を導入する」と言い出したものですから大変な騒ぎになりました。急に対応できるものではありませんから、他メーカーさんと協力しながら政府関係者に色々とお願いした結果、現在のような形になりました。フィリピンだけではなくベトナムなどでもそうですが、政府の方針や考え方が一貫していなくてぶれやすいと感じます。

 

 

編集部

 

こちらに着任されてからドゥテルテ大統領に変わりましたが、その変化は何か感じられましたか?

 

高祖さん

 

ドゥテルテ大統領はぶれないですよね。トランプ大統領と比べてもぶれていません。良い悪いという議論は人によって見方は様々ですが、少なくとも政治信条に対してぶれていないですね。ですから、その点は安心して見ていられますし、ついていけると感じています。ドゥテルテ大統領が掲げた大きな柱の1つにインフラ投資拡大があります。実際に増えてきていますので、その実行力は評価できます。これからも期待したいですね。

 

 

編集部

 

フィリピン国内で今後どのような事業展開をされる予定ですか?

 

高祖さん

 

今後の展望としまして、いすゞの車やアフターサービスを通してフィリピンの物流に貢献していきたいと考えています。また、公共輸送への貢献も進めます。例えば、ジプニーの代替プロジェクトというのがありまして、どういう製品、どういうサービスが良いか検討を進めています。今フィリピンで問題となっている渋滞や公共輸送機関の脆弱さを改善できたらと思います。それから私たちはトラック以外にSUVも販売しておりますので、フィリピンの国民生活を豊かにするという面でも貢献したいです。
これらを実行することにより、いすゞというブランドをフィリピン国民に愛されるナショナルブランドにしていきたいと思っています。

 

 

編集部

 

心に残っている本は?

 

高祖さん

 

年代によって様々ですね。高校時代は、五木寛之の『青春の門』です。3回くらいは読みました。筑豊の炭鉱の話で、私は岡山県に住む田舎の高校生でしたので、主人公が東京に出て行くストーリーに影響を受けて、自分も高校を卒業したら東京に行きたいなと思っていました。大学生の頃は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』です。男として志を抱いて生きていく竜馬にあこがれていました。司馬遼太郎の本はほとんど読みました。 
最近では、ベッツィ・サンダースの『サービスが伝説になる時』です。著者はアメリカの有名なデパートにパートとして働き始めて、7年間努力を重ねて副社長にまでなった方です。サービスとは何かが書かれた本です。いすゞ九州に社長として赴任した際に、日本国内でトラックの販売会社として何が必要なのかということが正直よく分かりませんでした。販売会社ですから営業の第一線なのですが、本当に販売だけなのかと疑問を持っていました。そのときに新聞でこの本の広告を見かけて読みました。お客さまにものを売るだけではなくて、お客さまの想定を超えたサービスを与えられたときに本当に感動してもらえる、という内容です。逆に言いますと、感動を与えられるサービスとは何かということです。他業界にも通じていると思います。

 

 

編集部

 

プライベートの時間はどのように過ごされていますか?

 

高祖さん

 

週に1回ほど、サンタエレナやシャーウッド、サウスウッズなどでゴルフをしています。日本人同士だけでなく、フィリピン人のスタッフたちとも月に一度はプレーするようにしています。外国で仕事をする場合、日本人だけではどうにもならないことがあります。そのようなとき、いかにローカルの人たちに理解してもらい、いかに自分の思っている方向に進んでもらうかが重要になってきます。ですので、仕事上の付き合いだけでなく、会社を離れたプライベートでもローカルの人たちと一緒にいる時間を作り、会社ではなかなか話せないようなこととかも話したりしています。これは私の信条の1つです。アメリカやインドネシアにいるときもそうでした。いすゞアメリカいた頃、ランチのときには必ずアメリカ人のスタッフと一緒にハンバーガーを食べに行ったりしていました。
言い換えますと、植民地支配みたいな企業運営はしたくありません。例えば、弊社では毎朝全員でラジオ体操をしていますが、赴任初日にラジオ体操に参加した際に違和感がありました。流れている音楽が日本語だったのです。フィリピン人スタッフはそれでも慣れていて体操をしていましたが、これはおかしくないですか?いすゞ自動車が活動の支援をしているタクロバンのTESDAの整備士養成学校では、英語のラジオ体操の音楽で体操しているんですよ。早速人事担当に「英語の音楽があるのになぜ日本語なのですか。それでは植民地みたいだから、すぐに英語に変更するように。」と言って、英語のラジオ体操に切り替えました。
フィリピン人の手による、フィリピン人のためのいすゞブランドを目指していきたいです。日本人が作るのではなく、フィリピン人が作るのを日本人が手伝っているというような企業に成長させたいですね。
ゴルフに加えて、2年前からスキューバダイビングを始めました。アニラオでライセンスを取りましたよ。その後、家内にも勧めて、一緒にアニラオに行きました。アニラオへ行くのは少し大変ですが、せっかくフィリピンに住んでいるので、フィリピンの自然も満喫したいと思います。

 

 

編集部

 

ご自身の今後の展望や夢は?

 

高祖さん

 

プライベートの夢は、孫が2人いますので素敵なおじいちゃんになることですかね(笑)。 あと私たちの世代では、会社の夢=プライベートの夢になる方が多いのではないでしょうか。私はいすゞに勤めて、もう38年ですから、いすゞの夢が自分の夢に入れ替わってきますね。自分が任された領域で何かを残したいです。今ですと、フィリピンに自分の足跡を残せるような、そんな仕事ができればと願っています。 

 

 

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ビジネス烈伝

入社1年目で経験した飛込み営業で扱っていた事務機器を自分の武器に各国で事業を行ってきた尾澤さん。フィリピンでの販売はB to C系の製品や商業印刷の売上は堅調ですが、事務機器が伸び悩んでいます。自社製品は優れているもののお客様の課題解決に活かしきれておらず、’17年8月に赴任され、現在改善を進めています。
授業動画を使って塾に行くよりも格段に安く学習できる方法が日本でも話題になっている。その仕組みをフィリピンの学校の授業にも取り入れているのがQuipper。
比への異動は全くの想定外だったと話す浅野さん。そんなアウェイへ乗り込み悪戦苦闘を強いられるも、今年度は新たなビジネス提携を控え業績も右肩上がりだ。話の端々に垣間見られる自分への厳しさや謙虚さが結実したものだと想像がつく。日本発の国際ブランドが繰り広げるおもてなしがこの地に根付くため邁進し続けている。
今年創業50周年を迎えた長大は、この5月にミンダナオ島・ブトゥアン市でパートナーのエクイパルコ社らと開発を進めてきた小水力発電所の竣工式を迎えた。現在はインフラ整備から工業団地の事業まで、ミンダナオ島で雇用創出を通じた民間主導の経済開発を目指して尽力している。その事業を一から手掛けてきたのが加藤さんだ。
2016年、フィリピンの大手金融機関BDOと野村HDの合弁会社「BDO野村セキュリティーズ」の初代社長に就任した片川さん。現地の人々の力で国内の経済を盛り上げようと、個人向けのオンライン証券市場の開拓に意欲を燃やす。国内外で培ってきた営業力と持ち前の勤勉さを発揮し、成長市場を見据えて大きく舵をとる。

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PGA Sompoは日系企業のパートナーとしてフィリピンに進出し四半世紀。小さな市場に60社もの損害保険会社がひしめく群雄割拠の中、近年はローカルを含めた非日系企業にも日本クオリティのサービスを提供して存在感を増しています。市場の潜在性は非常に高く、これからが楽しみな一方、「宵越しの金は持たない」国民性の比人に向け保険の周知活動にも取り組んでいます。

その他

マニラ、セブで学生、ビジネスマンらを受け入れる英語学校、さらにはオンライン英会話教室などを運営するEEN HD co.,LTDの李百鎬会長にお話をお聞きしました。
前回ではフィリピンでの事業譲り受けのポイントについてお話させていただいております。今回はその具体的なポイントについてお話しいたします。今回は4月ということで、新たにフィリピン駐在となった方々向けにお話しいたします。
マニラの観光名所イントラムロスはスペイン統治時代に造られた要塞都市で非常に古い歴史を持つ場所です。その周囲を囲む壁や堀を利用して作られたのがイントラムロスゴルフコース。
とうもろこし粉で作られたタコスの皮をパリッと揚げて作られるタコシェル。その名の通り、見た目がシェルのような形をしているのでタコシェルという名前がついたようです。食べ方はタコライスと同じ要領で、タコシーズニングで炒めたひき肉、レタスやトマト、サルサソースをかけたものを挟んで食べます。手軽に手に取って食べることができるのでパーティーのオードブルやストリートフードなどにも最適なアイテムです。
ラウンド後はクラブハウス隣接のレストランではなく是非ともハイランドリゾート内にある中華かステーキかに足を延ばして頂きたいです。どちらもクオリティーが高く甲乙付け難いのが嬉しい悩みで行く度に迷ってしまいます。The Highhlander Steakhouseからの景色は絶景で天気が良ければテラスからタール湖とMidlandコースが見下ろせます。
おやつが大好きなフィリピンにはたくさんの甘いスイーツがあります! クリスマスシーズンになると街中でPuto bumbong屋台が出没してきます! Puto bumbongとは紫の餅にココナッツや砂糖をまぶして食べるものです。 今回はこのPuto bumbong作りと販売のお手伝いをしてきました!
みなさん、こんにちは。 フィリピン住みます芸人「ハポンスリー(HPN3)」の田中です! 今回は「フィリピンでミニ四駆をやろー!!」です。 皆さんご存知!あのタミヤのミニ四駆です! 僕が小学生の頃ミニ四駆二次ブームで、すごく流行りました!
今回は「マニラの英語学校ベーシックイングリッシュキャンプに行きました。」です!フィリピンで英語学校、留学と聞くとセブ島なとを想像するかもしれませんがマニラにもあるんです!
特許侵害事件で賠償金90億円って本当なの? 皆さん、「下町ロケット」というドラマはもうご覧になりましたか? 本コラムでは、このドラマのシーンを織り交ぜながら、東南アジア域内で中小企業でも起こり得る知的財産権問題を紹介したいと思います。
日本で商標登録を行っている商標が全く関係の無いフィリピンの会社により商標登録されていることがわかりました。この商標登録を取り消すことはできますか?
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