オールジャパンで伸びしろあるフィリピンの成長に貢献。
マニラ日本人会会長
フィリピン住友商事社長
高野 誠司 氏
商社パーソンとしてアメリカからタイ、インドネシア、2018年 からはフィリピンと、東南アジアに長く駐在するフィリピン住友 商事社長の高野誠司さんに、フィリピンのビジネス、ポテンシャルそして日本企業としての取組みを、そして2022年から会長に就任したマニラ日本人会の活動状況をお聞きしました。
編集部
社会人になってからのご経歴を教えてください。
高野氏
私は、1985年に住友商事に入社、8年半は運輸本部に所属し、輸出物流を担当しました。当時は自動車産業関係業務が中心で、アメリカへのプロジェクト貨物の物流手配、据付業者管理などが主な仕事で、アメリカ中西部(ミシガン州、オハイオ州、ケンタッキー州等)へ長期出張していました。
自動車のボディーをつくるプレスマシン等は分解しても一梱包あたり100トン以上の重量物が含まれます。その大型物流に魅力を感じていた半面、運輸本部は当時は半営業部隊で、実際に採算をクリエイトするのは営業部隊であり、自身のキャリアアップのためにも純営業部門で取り組んでみたいとの思いを持ちました。たまたまそれをキャリアアンケートに記載した所、即、エレクトロニクス関連の営業部に異動になり、そこから私のアジアとの付き合いが始まります。 当時、85年のプラザ合意により円高が進み、徐々にエレクトロニクス産業の製造地が日本からアジアへシフトする中で、当社も90年にはシンガポールに電子部品調達拠点を置き、93年にタイにお客様にディストリビュートする拠点を設立。それがスミトロニクス・タイランド社で、私はまずそこにマネージャーとして7年強駐在しました。95年には電子部品のディストリビュートだけでなくアセンブルにも着手することになり、プリント基板に電子部品を実装する合弁工場をタイ郊外に設立することになりました。
当時のタイはまだ鉄道もない、世界で一番交通渋滞が激しいと言われたいた時期です。97年にはアジア通貨危機も経験しました。世界景気の後退で多少の影響はあったものの、エレクトロニクス産業自体は決定的な事態にはならず、比較的順調に推移しました。この成功によりスミトロニクスグループの事業はインドネシア、フィリピン、中国そしてメキシコへと拡大していくことになります。2001年に一旦日本にもどり同事業会社本社の営業部長を経て、2005年からインドネシアのスミトロニクス拠点社長として、6年半駐在しました。
タイは初めての駐在となった地で、家族も一緒でしたので想い出深いですね。子供たちはタイの日本人学校に通いました。そしてタイ時代も、インドネシア時代も国民一人当たりのGDPが3000ドルから4000ドルになろうという、まさに発展の最中で、そのダイナミックな成長を目の当たりにしてきました。フィリピンがちょうど今、その時期に当たりますね。
編集部
フィリピンの印象をお聞かせください。
高野氏
タイ、インドネシアと東南アジアに駐在して来ましたのでフィリピンにはとても親近感を感じています。
また、私の愛読書の一つ、「炎熱商人」(深田 祐介著、文藝春秋刊、1982年)は、私が商社に入社する動機の一つにもなった小説ですが、このモチーフは、十数代前のフィリピン住友商事の社長です。同じ立場で仕事ができることに不思議な縁と大きなやりがいを感じました。小説の中の小寺社長が直接部下のところに話に行ったり、朝会への現地スタッフ参加を開始したりと、今でこそ組織運営におけるD&I(ダイバーシティ&インクルージョン)が叫ばれていますが、50年以上前から『何事かをなす』ために実践されていたことだと改めて感じます。
そして、他のアジア同様、フィリピンは親日度が高く仕事もやりやすいですね。過去あれほど多くの方が戦争で亡くなっているのにもかかわらず、過去は過去として前を向いて接してくださるのは本当にありがたいことです。日本人戦犯に恩赦を与えたキリノ大統領やフィリピンに溶け込もうとした炎熱商人(小寺社長)は象徴的な存在ですが、この国の様々な分野や場面で、多くの“キリノ大統領“や“炎熱商人“たちが努力を重ねた賜物であろうと思います。
編集部
タイ、インドネシアと比較したフィリピンの特徴は?
高野氏
タイは仏教、インドネシアはソフトムスリム、そしてフィリピンはカトリックです。宗教も違えば国民性も異なりますね。海洋性国家と大陸性国家による違いもあるのかと思います。タイはほほえみの国と言われますが、多くの国に挟まれながら一度も植民地になったことのない、ある意味したたかな面ももっているのでしょうか。その点、インドネシアはシャイでフランク、屈託がない感じです。フィリピンはより明るくてオープンなイメージをもっています。
編集部
インドネシアの業務は順調でしたか
高野氏
人生においてこの時だけだと思いますが、仕事のことで2ヶ月くらい眠れない夜を過ごしたことがあります。スミトロニクスの事業そのものはおおむね順調に推移していました。しかし、インドネシアはインドに次ぐ世界で2番目に税務関係の訴訟の多い国です。スミトロニクスでは傘下の工場で製造を行いながら他の製造企業(サブコン)との取引もあり、その取引に関するVAT(付加価値税)の取り扱いについては法律で明確な規定がなかったのですが、ある日突然「VATの還付対象にならない、一年で5億円、過去にさかのぼって数十億円の追徴課税を支払え」と税務署から通達が来たのです。5億と言ったら当時インドネシア事業の一年分の利益に相当し、数十億円となると当時スミトロニクスグループ全体の事業利益に匹敵するため、これは下手をするとインドネシアだけでなくスミトロニクス全体が事業撤退に追い込まれかねない、と緊張が走りました。
当時、インドネシアでは実際に数十億規模の追徴金を支払わわされた日系会社も何社かありました。もちろん、弊社では事前にこの事態は予測し、税務署からほぼ大丈夫とのお墨付きに近いレターを入手してはいたのですが。。。
通常、このような案件は税務コンサルに任せるのですが、なかなか埒があきません。さすがに事態が事態ですので、私自身で税務署の所長と直談判を行い、何度も交渉を行い漸くなんとかなりそうだと思った矢先、「どうやらあの所長が来週異動になるらしい」との一報が。。。 これまでやってきたことが白紙になってしまったのか?と頭が真っ白になりました。そしてこれが最後となる日、その所長の所に行くと、「今日はTAKANOによいニュースと悪いニュースがある」というのです。よいニュースとして追徴課税については無罪放免!、しかし悪いニュースとして書類に不備があるため約1億円の追徴をするとのこと。1億はほぼ言いがかりで、金額的にも大きいですが、会社をたたんで従業員や取引先に迷惑をかけ、他の国のスミトロニクス事業にも大きな影響を与えずに解決できたと思えば不幸中の幸いです。その説明を聞いた際、所長には後光が差して見え、思わず両手で彼の手を握り締めていました。。。当然本社には怒られました。
ただ、その税務署長とは月に何回も会い、会社が撤退したらタイの税収入が減ってしまうことも力説し、事務所に来てもらい実態も見てもらって真摯に話し合いを行いました。所長は英語で会話ができる方でリーズナブルな方だったのも幸いしたと思います。教科書的には現地の税務署等との交渉ごとは日本人は矢面に立たず税務コンサルや現地社員を通じて行うべし、と言われていますが、時と場合そして相手によると思います。自らがどれだけ真摯に、逃げずに真正面から解決を図ることが重要かを学んだできごとでもありました。
編集部
印象に残っているプロジェクトは?
高野氏
MRT3号線の修復工事があげられます。もともと同線は三菱重工グループと住友商事が建設し、2000年からメンテナンスも行っていました。12年に契約が終了し、その後はローカル企業、そして韓国企業がメンテナンスを行ったのですが、故障、大きな事故や火災が日常的に発生し社会問題化しました。そこで18年に当社グループが再度メンテナンス契約を受注、19年から全ててのレールを取り換え、車両も整備しました。レールの取り換えは、運行の止まる深夜12時から朝の4時まで、毎日180mずつ進捗するという非常に長い道のりでした。途中パンデミックの影響もありましたが、21年11月に全システムの修復が無事完了、今年3月には修復完工式典を行うことができました。ドゥテルテ前大統領も出席され感謝の言葉を頂いたのですが、「ありがとう、“すみもと“!」と言われたときには一同ずっこけました(笑)。ともあれ、やり遂げることができ、ご支援を頂いた関係者の皆さんには大いに感謝しています。このような積み重ねが日系企業の信頼につながっていってほしいと願います。
編集部
新政権に対する印象をお聞かせください。
高野氏
基本的には前政権の施策を維持するとの方針を大いに歓迎しています。閣僚の登用もフェアかつ有能な実績のある方を選ばれている印象です。経済政策においても今後、どこまで独自性を出していくかが課題ですが、滑り出しとしては安定感、安心感がある布陣になっていると感じています。
編集部
フィリピンのポテンシャルをどう見ていますか?
高野氏
非常に高いと思います。人口ボーナスが2050年頃まで続くこと、英語ができる国民性の他に、インフラが未開発であること、貧困率の高さなど、これまで出来ていなかったことがかなりあるという意味でも伸びしろがあると思いますね。
編集部
今後のフィリピン住友商事の取組みは?
高野氏
現在進行中の鉄道関連プロジェクトとしては、MRT3号線のメンテナンス期間延長に加えて、南北通勤線フェーズ1、地下鉄、南北通勤線延伸線(クラークからカランバまで)等にて車両を受注し、合計648両の車両を納品するという事業に注力しています。昨年12月には、まず最初の8両をマニラに運びました。
現在、アジア各国ではODA(政府開発援助)からPPP(官民連携)に移行する動きがあり、フィリピンもマルコス政権下ではその方針が示されていますが、それでもフィリピンではODAは重要な位置付けとされています。越川和彦・駐フィリピン大使や坂本威午・JICA所長など政府関係者の方々もインフラ事業について大いにサポートしてくださっており、『オールジャパン』 で取り組むことができることを非常に力強く感じています。
他に鉄道分野では、2年前からLRT1号線の運営にも参画しており、今後は日本の技術力を活かして事業価値を高めたいと思います。また弊社ではこれまでマニラ郊外にてFPIP(ファーストフィリピン工業団地)を当地財閥グループと開発し、70社を超える日系企業向けにテナントサービスを行って来ましたが、今後はそこで働く8万の従業員やその家族、地域のためにタウンシップ事業を検討するなど、今まで築いた資産や信用をベースに周辺事業を拡大し、フィリピンの発展に寄与していければと考えています。
編集部
ビジネスパーソンとして転機となったことは?
高野氏
タイ時代は典型的な商社の営業マンとして連日、接待に追われたり、ゴルフの企画ばかりがうまくなって頭がトロピカルになっていました(笑)。要は経営者としての修練が全くできてない状態だったわけですが、「これではいかん」と一念発起し、タイから日本に戻った後に「中小企業診断士」の資格を取りました。丸二年ほぼ勉強漬けでそれなりに大変でしたが、経営を体系的に学ぶことができ、その後の経営者人生の大きな転機になったように思います。勿論経営は生き物であり、教科書通りにはいかないものですが、それでも将棋でいう「定跡」と同様、原理原則はあると考えています。その後、現在を含めて三つの会社で計15年ほど社長業を務めていますが、座学で学んだことを実践で活かす場を与えてくれた住友商事には感謝しています。
編集部
マニラ日本人会の活動状況を教えてください。
高野氏
日本人会ではこのパンデミックの2年間、ほぼ活動を休止していたのですが、ようやくここに来て活動を再開しつつあります。ソフトボール大会も復活しましたし、MJS(マニラ日本人学校)もパンデミック前は450名在籍、昨年の今頃には150名まで落ち込んだのですが、ようやく300名まで戻ってきています。診療所も通常運営を再開し、会の活動がパンデミック前に戻りつつある感があります。日本人会としては、フィリピンにおられる皆さん、ご家族を含めて、安心して生活ができるコミュニティーを作りたいと考えて活動をしています。多くの会員や理事の皆さんと一緒にマニラ日本人会も盛り上げていきたいと考えております。
(取材:2022年10月21日)
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