空を翔る情熱を持ち続け、今もなお飛行機事業に携わる。
All Asia Aviation Academy(AAA)
学校運営責任者 佐藤 剛 さん
東京電機大学中退。全日空のパイロットを経て、スカイマーク・エアライン、レキオス航空、スカイネット・アジア航空の設立に携わる。全日空時代に突発性難聴を発症してからは地上職として活躍。退職後、その経験を活かし2016年から現職。島国であるフィリピンでパイロットの必要性を認識し、育成に努める。
〈心に残っている本〉
ヘミングウェイの『老人と海』です。放浪中原文を持ち歩いていました。ぼろぼろになるまで何度も読みました。サンチャゴという年老いた漁師の不屈の精神がものすごく好きですね。あとはエリック・シーガルの『ラブ・ストーリー』です。オックスフォードにいる時原文で読みました。アメリカのイースト・コーストのコロキアル(口語)がたくさん出てくるんです。それが面白くて。
パイロットになりたい!そんな子供の頃の夢をフィリピンで実現できるかもしれません。自らもパイロットとしてのキャリアを持つ佐藤さん。病気のためメディカルライセンスを失った後も地上職として飛行機の仕事に関わり続けました。これまでの仕事の集大成と語るAAAでは飛行機免許取得のサポートを。自身もセスナの免許取得を目指します!
編集部
Q1: これまでの経歴についてお聞かせください。
佐藤さん
1950年生まれ、新潟県長岡市出身です。私が大学に在学していた当時の日本は高度経済成長期で、極端なパイロット不足でした。外国人パイロットを雇っていたような時代です。航空大学校出身のパイロットだけではとても足りないということで、航空会社が自社でパイロットを育てようとしていて、全日空がパイロット養成の募集を一般に向けて出していました。それに応募し、五次試験まである厳しい試験でしたが、最終合格者10名に残りました。実はその前の1年間、大学を休学して世界放浪をしていまして、その時に身につけた英会話力が合格できた理由かなと思っています。17歳の時には、1ヶ月かけて台湾を一周もしていました。生まれ育った長岡がとても保守的な土地柄だったこともあり、それに反発して、海外に飛び出したいという想いが強かったんですね。
編集部
ーなぜ、在学中にパイロットになりたいと思ったんですか?
佐藤さん
もともとパイロットになりたかったんです。しかし、貧しかったので当時の自分には航空学校へ入る事は厳しいと思っていました。電機大学は夜間で、昼間働きながら通っていましたが、卒業したら就職して、いずれはパイロットになりたいと思っていました。実は大手航空会社のパイロットの半分は文系なんです。パイロットになる素質というものがあるのですが、それは理系的な頭脳を持っていることではなく、バランスが取れていること、なんです。向上心、忍耐、闘争心など、人間としてのバランスが取れていることが大切。理系の方はともすれば、1つの能力を磨くことに集中しがちなんですが、文系の方は比較的バランスが取れています。良く学び、良く遊びといったようにね。
編集部
ーなぜ、パイロットにはバランスが必要なんですか?
佐藤さん
パイロットという職業は、一瞬のうちに、総合的に物事を判断する能力を求められるからです。常に何かに気を配らないと飛行機の操縦はできません。旅客機のパイロットは、総合的に飛行機のマネジメントをするマネージャーです。飛行中は社長であり、会社の代表者です。乗客の安全に全ての責任を負って、決断をします。そこには会社の意向も入ってくるわけです。その意味では、パイロットはそうした責任を受けとめて、しっかりと判断を行える人格者でなくてはいけません。
編集部
ー試験に合格された後は?
佐藤さん
21歳から2年間イギリスの飛行学校に通いました。「オックスフォード・エア・トレーニングスクール」という、世界中の航空会社が初等訓練段階の学生を送り込む名門の飛行学校です。座学と飛行訓練があったのですが、飛行訓練で落とされてしまう人が多く、本当に厳しい環境でした。試験があるごとに仲間が脱落していくんです。荷物をまとめて帰っていく仲間を見送るのが辛かった。明日は我が身かという思いでした。学校としても、将来パイロットになった時に事故を起こしてしまうであろう人を輩出するわけにはいきませんので、その厳しさは当然と言えますがね。世界各国から、国を代表する航空会社のパイロット候補が集まる学校でしたから。
編集部
ー卒業された後は?
佐藤さん
全日空にパイロットとして入社し、2年ほど訓練を受けてようやく副操縦士になりました。イギリスの学校、入社後の訓練を乗り越えてパイロットになれた時は、ものすごく嬉しかったです。それはもう涙がでるほど。人生で最高に幸せな瞬間でした。しかしパイロットになってから10年後、突発性難聴を発症してしまいまして、ある日突然左耳が聞こえなくなってしまったんです。3年間闘病しましたが、結局改善することはありませんでした。それでライセンスがおりず、飛行機操縦ができなくなってしまったんです。それ以来マニュアルを作ったり、パイロットの育成に携わったりと、運航を支援する側の地上職になりました。運航技術部という部署だったのですが、そこには20年ほどいました。その後、転職してスカイマーク・エアラインズに行きました。いよいよ日本にもLCCが出来て、大手の壁に穴が開くということで、設立に携わるために全日空をやめました。そこでも、運航技術部長としてマニュアルを作ったり、パイロットの訓練を管理したりという仕事をしていました。
編集部
ー転職されたきっかけは何だったんでしょう?
佐藤さん
大きな組織の中では、自分が潰れてしまうと感じたんですね。コツコツ毎日同じことをしていると、先が見えてくるんですね。大手の会社ってそうした感じだと思うのですが。安定はしていますが、面白くないと。自分のやりたいことをバリバリやらせてくれる会社に行きたいと強く思いました。それなら出来立ての会社が良いかなと。それで、立ち上げ段階のスカイマークに参画したんです。転職してからは本当に忙しかったですけどね(笑)。当時は頻繁に出張をしていましたし、あれもこれも一人でやらなければならなかったですし。スカイマークにいたのは3年間です。そのあとは、レキオス航空という沖縄の航空会社の設立にゼロから携わりました。航空局に書類を持って行って事業認可を得る、そういう所からのスタートです。航空会社を作るノウハウがわかって面白かったですよ。スカイマークの仕事で十分満足していたのですが、役員にならないかと誘われて参画した形ですね。私を必要として下さるならどこにでも行きます、というスタンスです。レキオスには1年間だけいました。というのも、この会社は一度も離陸しないまま資金繰りの問題で潰れてしまったからです。その後は、スカイネット・アジア航空からお誘いがありました。立ち上げ段階でまだいろいろ固まってなかったので、大変でしたね。中古機を使用していたので、故障が多くて困りました。中古機は問題点がとても多いという教訓を学びましたよ。こちらも一度、事実上潰れてしまったんですが、再生法が適用されたために、政府の手が入りまして、全日空のサポートもあり再生する形になりました。ここには15年いて、定年の65歳まで勤めました。ここでも運行技術職でしたね。退職してからは、ドローンを使ったソリューションを売り込む事業を主としている会社にいました。定年を迎えてからも、ずっと働き続けています。私は死ぬまで働きたいと思っていますので。
編集部
Q2: AAAに入社されたきっかけは?
佐藤さん
日本で知人と飲んでいるときに、フィリピンに面白い会社があると聞きました。日本人経営の航空学校で、エアライン経験者を募集しているから行ってみたらどうかと。それで、弊社小倉に連絡をしたところ、ぜひお話をさせていただけないかと言われました。素晴らしい会社だと思います。私の経験を生かす、集大成の場だと直感で感じています。良い機会を与えてくださって、本当に感謝しています。
編集部
ーAAAを素晴らしいと感じる点は、具体的にはどのような点ですか?
佐藤さん
フィリピンという国で、これだけきちっとした運営をされているのが素晴らしいと思います。スタッフは真面目、整備士の仕事も的確、パイロットの身だしなみが綺麗などなど、総合的に見て、私が想像していたものをはるかに越えていました。
編集部
ープラスαで必要なことはなんだと思いますか?
佐藤さん
すでに十分しっかりやっていると思いますが、もっと質を上げていけると思いますね。従業員のモラル、きめ細かいスケジュール管理、などといった質を向上させていければと。安全意識ももっと高めたいです。「フィリピンにあるけど、日本にある会社と変わらないじゃないか」と思ってもらえる品質の高さを今後求めていきたいですね。
編集部
Q3: AAAの成り立ちをお聞かせください。
佐藤さん
AAAは、KTCグループという、名古屋の中央出版株式会社の教育事業の一環として設立された飛行学校になります。AAA=All Asia Aviation Academy です。2008年に初代会長の前田亨が設立しました。7,000の島からなるフィリピンにおいて、災害時の物資輸送には飛行機がもっとも適しています。つまり、フィリピンに最も合ったインフラは飛行機であると。前田は、飛行機事業を通じてフィリピンに貢献したいと考えたんですね。そのためには、多くの若者に航空に目を向けてもらう必要があります。フィリピン人パイロットを育成し、そして航空会社で活躍できるような人材を輩出する。直接エアラインを作るのでなく、あくまで教育事業の一環としてやるということで、こうした形態になりました。
編集部
ーやはりパイロット不足ですか?
佐藤さん
はい、アジアは特にそうです。パイロットがいないために欠航が出るという事態にもなっています。中国、韓国、インド、アジアの至るところで問題になっていますね。
編集部
Q4: 競合他社と比較し、AAAの特徴や強みは何でしょうか?
佐藤さん
日本人経営であることですね。日本人スタッフが常駐していることも強みだと思います。日本人ならではの、安全で質の高い訓練を提供できます。日本の企業だったり、日本人の働きぶりというのは、信頼性が高いですよね。
編集部
ーカリキュラム的には他との違いはありますか?
佐藤さん
特にはありませんが、量は多少多めです。将来の安全につながることですので、しっかり教えたいと思っています。時間が短いことだけが良いことだとは思っていません。
編集部
ーフィリピンNo.1の飛行機数とお聞きしましたが、いくつあるのでしょう?
佐藤さん
14機です。機数が多いということは、予備機をしっかり確保できるということ。いつでも準備万端の機体が用意してある状態なので、生徒さんの受講スケジュールが遅れたりすることはありません。スムーズな受講予約ができるのも強みだと思います。
編集部
Q5: 免許取得にかかる費用は日本に比べてどうなのでしょうか?
佐藤さん
日本に比べて、安く免許取得できます。世界で一番高い日本の4分の1から3分の1の料金です。フィリピンは日本から近いですし、英語もネイティブの英語に比べれば聞き取りやすいので、日本人からするとメリットは多いと思いますね。また、繰り返しになりますが、日本人が常駐しているという安心感はあります。
編集部
ー卒業した後の就職先についてはいかがでしょう?
佐藤さん
結構見つかりますね。航空会社に入った後に、またさらに訓練を受けることになりますが。大事なのは、素質なんです。会社がこの人は素質があると判断すれば、お金をかけて訓練するわけです。素質というのは、総合力、適性ですね。空中で今どのような状況であるかがわかる、空中認識能力のようなものでしょうか。spatial situation awareness と呼びます。これはテストをすればすぐにわかります。冷静さを失わずに一つ一つ作業ができる、これはその人が生まれ持った特性も関係してきます。
編集部
Q6: 座右の銘は?
佐藤さん
色んな人に伝えている、大好きな言葉があります。
「As long as you never forget your dream, the dream will come to true」
「パイロットになりたかったんだよな。でも俺はいつの間にかサラリーマンになったんだよな。今でもなりたい?じゃあその夢を持ち続けていればなれるよ!」と。
私の夢は何かわかりますか?私の今の夢は、もう一度、空を飛ぶことです。じゃあどうするかと言いますと、AAAで免許を取りたいと思っています。若い学生と一緒になって1から。仕事をしながら、訓練を受けたいなと。それで私が飛んだ時には、67歳でパイロット誕生って宣伝してくださいね(笑)。老眼鏡をかけて挑戦しますので。
編集部
Q7: プライベートな時間はどのように過ごされていますか?
佐藤さん
朝、ビーチに行きます。勤務先がイバで滑走路の隣がビーチなんですよ。漁師がカゴいっぱいにイワシをとってきて、それを村人が買いに来てるんですけど、私もよく買います。その場でさばいて、ホットスパイシービネガーを付けて食べます。地元の人に刺身を振舞います。あとは、地元のビデオケで地元の人と一緒に歌ったり。空港周辺に何も無いので、村に入っていくしかないんです。コンビニもないので、サリサリストアでビールを買って、焼き鳥を食べてとしているうちに村人ととも仲良くなりました。
編集部
ーフィリピン人の印象は来る前と来た後でどうですか?
佐藤さん
イメージと同じですね。明るくて楽しくてフレンドリー。フィリピン人スタッフについては、英語能力、知識レベルが高いですし、よくこんな優秀な人たちが集まっているなと思います。
編集部
Q8: 佐藤さんご自身の「今後の展望」や「夢」についてお聞かせください。
佐藤さん
AAAとしては、将来エアラインを作れるような会社にしていけたら良いなと思います。それは創業者の夢でもあったわけで。私自身の夢は、先ほど申し上げましたように、AAAでセスナの免許を取って、自由に空を飛ぶことです。