生産拠点からマーケットへ 民間主導のフィリピン市場を開拓する
Hitachi Asia Ltd. フィリピン支店長
清水 光彦さん
東京都出身。早稲田大学商学部卒。1987年日立製作所に入社。入社後7年程は東南アジアで発電所などの営業を担当。95年にインドネシア、2002年にシンガポール赴任。05〜08年までは代表としてジャカルタ駐在。2012年10月よりフィリピン支店の代表に就任。現在マニラ日本人会の会長も務める。
〈心に残っている言葉〉
僕は早稲田出身ですが、慶応に入ると渡されるという『福翁自伝』など福沢諭吉関連の本を最近読んでいます。『学問のすゝめ』では「顔色容貌の活発愉快なるは人の徳義の一ヵ条にして、人間交際においてもっとも大切なるものなり。」とあるんです。あの時代に「人と朗らかに付き合いなさい」と言うのはすごいと思いますね。
たまたま入社できたと謙遜する清水さんは、日立でその当時人気の海外営業を担当。東南アジアを中心に世界各地で活躍してきたグローバルな視野を持ちながら、その話しぶりはとても気さくだ。輸出の対象から生産拠点、そしてマーケットへ。海外に根を張って事業を行うに至るまでの日立の歴史も興味深いものだった。
編集部
日立製作所に入社されたきっかけは?
清水さん
今の学生はちゃんとした意志を持って会社に入社していると思いますが、当時はバブル前夜という感じで皆あまり就職に対してポリシーなど持っていませんでした。でも四年生になったら就職活動しなきゃならないし、かといって勉強もちゃんとしていなくてどうしようかと思いまして。商学部だったのですが、選択肢として商社もありましたが商社は忙しいイメージがあって嫌だなと。(笑)内定を頂いた会社は、給料は良かったのですが大変そうだと思っていたところ、日立がまだ募集をしていたんです。会社のイメージもよくわからないまま、たまたま行ったら受かってしまいました。入社する前は電力なんかをやっているのは知らなかったです。せいぜいテレビやエレベーターのイメージですね。大学のゼミの先生に相談したら迷うことないだろうと背中を押され決めました。
当時新入社員が1000人くらいいて、文科系が200人程、理科系が800人程。文科系の40パーセントくらいがシステムエンジニアになるんです。文科系なのにそんなの分からないじゃないですか。それになったら辞めちゃおうと思っていました(笑)。3月31日に新入社員が全員上野駅に集まって集団就職みたいに列車に乗って日立市まで行くんです。それだけのための列車で、通常ダイヤの中をぬっていくので5時間くらいかけて行くんですよ。その夜、昭和14年に作られたという5人部屋の、窓が割れているような寮に皆入れられたんです。そこから2週間、1000人が研修をやるんです。2週間後、講堂に1000人が集められて一人ずつ配属を言われるんです。1000人いるので清水というのも4人くらいいて、「清水○○、SE」とどんどんSEになっていくのですが、僕はなんとか免れました(笑)。
編集部
そこでいきなり水力発電の販売と言われたときはどうでしたか?
清水さん
入社した後にそういうことをやっていると知ったので、よくわからないまま「あぁ、そうなんだ」と。水力発電や火力発電は当時日立の主流だったらしいんですよ。その当時、皆英語がしゃべれようがしゃべれまいが、文科系のほとんどは海外の営業をしたいと言っていました。僕はたまたまその部署に配属になって、海外関係の営業をしました。その頃家電やコンピューターのイメージもありましたが、発電所は全く分かっていませんでした。入社直後は中近東が多かったのですが東南アジアにも関わる中で、フィリピンはやっていませんでした。主にタイとかインドネシアとかクエートとかアブダビですね。入社して2、3年でタイやラオス、インドネシアのジャカルタやスラウェシ島やスラバヤに行きました。水力発電所というのは割と山の方に多いんです。そこでスマトラ島のメダンから車で3時間とか、スラウェシ島の空港から2時間とか、タイのバンコクから4時間とかいうところに出張ベースで行っていました。
編集部
グローバル化の走りですか?
清水さん
日立で言うとグローバル化というか、輸出は相当昔からやっていて、水力発電所の機器を1930年にはダバオに納めているんです。なので、水力発電関係の設備が走りで、1950年代からアメリカなどにも納めるようになって、次に水力発電関係からから火力発電に変わっていったんです。実はフィリピンも当時メラルコが発電もやっていて、今は配電会社で、電気をおこすというよりも電気を運んで最終的に消費者に渡すようなところをやってるのです。それで、細かく言うとメラルコは子会社を使って再び発電の方をしようとしているんですけど、この話をすると結構長くなるのですが、マルコス時代にメラルコは発電事業を取り上げられてしまったんですね。
編集部
メラルコのオーナーというのは?
清水さん
メラルコは元々1903年だったと思いますが、アメリカ人が作った会社だったんですね。それで戦後60年代くらいにロペスファミリーが買って、ずっとそこの会社だったんです。ところが10年くらい前に色々と経緯はあったのですが、ロペスさんから今現在はマヌエル・パンギリナンが最大株主になっています。PLDTと一緒です。で、戻るとフィリピンでは1960年代くらいから火力発電所のボイラーなどをメラルコに納めていました。もともとアメリカの会社だったので、アメリカから調達していたのですが、アメリカ以外から買ったのが日立製だったのです。フィリピンもそうですが、電力関係の設備の輸出は昔からやっていて、あとは家電ですね。この国でも日立といえばと年配の人に聞くと、扇風機とあとはせいぜいテレビですね。フィリピンだけでなく世界各国で、電力系や家電系を輸出でやっていました。グローバル化という話で言うと、日本国内の需要が高かったんです。国内の電力会社さんですとか、当時の国鉄だとかの需要が結構大きかったです。言ってしまえば端境期で、たとえばちょっと需要が落ちたときに工場の設備が余りますよね。そのときに海外の仕事をとるというのが1990年代半ばくらいまでで、これは日立に限らず他の会社さんもそうだと思います。ところが日本のマーケットが縮小化し、海外にちゃんと根を張ってやっていかなければならなくなったのがこの15年くらいの流れです。
編集部
東南アジアで変電所などの設備の営業をされていたのが7年くらいでその後は?
清水さん
94、5年にインドネシアのジャカルタに初めて住みました。当時はスハルト大統領で、アジアの新興国が伸びてきた時代です。飛ぶ鳥を落とす勢いでしたね、97、8年のアジア経済危機までは。景気もすごく良くて車も増えて、ここ10年くらいと似ていますよ、交通渋滞もすごくて。急速に発展したので、そういうことが起こったんです。そこで1年滞在し、戻ってきて2002年まで日本です。やっていることは大体同じだったんですけれども。中近東とか南アジア、インド、スリランカ、面白いところでブータンなどにも行きましたね。あとは東南アジア、アメリカ、ヨーロッパも。特殊な言語と言うか、中国とか南米でスペイン語が必要なところ以外は行きましたね。2002年からはシンガポール駐在になって、また同じようなことやっていました。シンガポール国内のプロジェクトと東南アジアですね。当時シンガポールでのプロジェクトはあったのですが古巣のインドネシアで大きなプロジェクトがあり月一回くらいでジャカルタに出張していました。そして2005年からは、ジャカルタにまた駐在しました。そこでは小さいオフィスだったのですが代表者になったので、他のビジネスなどもやりました。家電だとか産業機械といって空気圧縮機、コンプレッサーですとか、水の浄水関係ですね。下水処理ですとか、鉄道もです。2008年まで滞在しました。その後日本に戻り火力発電の営業になり、その時は東南アジアやインドをやっていました。2012年までです。そして12年の10月からフィリピンに来ました。
編集部
お話だけでも壮大な国家プロジェクトという感じですね。東南アジアなどをずっと見ていて発展の状況やそこから見たフィリピンについてどう感じられますか?
清水さん
シンガポールは別格ですが、1980年代の後半から通貨危機まで伸びていって、一旦お休みをしてその後2003、4年くらいから伸びてきて俄然注目を浴びてきています。我々の会社と東南アジアとの関わりで言いますと、コストが安いということで生産拠点としてシンガポールに入っていきました。シンガポールでさえ、今金融だとかサービス産業云々と言っていますけれど、1965年に建国をして、まずは製造業を誘致してということで、1970年代はシンガポールでテレビの製造をしていました。まだ発展もしていなかったですからね。その後タイやインドネシアやフィリピンに生産拠点を作っていって、そこから日本に対する輸出をしていったわけです。この国で言うと中国である程度作ったものを持ってきて、二次加工して中国に戻したり日本に出したりという風に使っていました。徐々にタイなどから始まったのですけれど、タイやインドネシアやフィリピンは国内のマーケットが大きいということで、生産拠点だけでなくマーケットを狙いましょうと変わってきたのがここ10年くらいです。なので他の会社もそうだと思いますが、ASEANに対する興味が生産拠点からマーケット狙いに変わってきたというのが一つあります。二つ目の変化という意味では中間層云々という話が出てきますが、ベトナムやインドネシアなどもバイクが増えていきましたよね。94年にジャカルタに行ったときは車はそれなりにありましたが、バイクはあまり見かけませんでした。ですが2000年代前半に中間層の所得が上がって、給料が1000ドルくらいになってきて1000ドルくらいのバイクを月賦で買うようになって、それに家族を3人くらい乗せて使うようになり、交通渋滞が激しくなっていったわけです。バイクのルールができないうちにどんどん増えてきてしまったので、90年代半ばの渋滞と2000年代に入ってからの渋滞は違っているよう様に感じました。ここでフィリピンはどうかというと、貧富の差が激しいところは抜けきれなくて、バイクもあまりないですよね。僕の感覚から言うと、フィリピンに最初に来たのは1995年なんですが、我々のオフィスでマネージャーが車を持っていてそれで通勤していました。ジャカルタではその時点ではマネージャークラスでは車は持っていなかったです。マネージャークラスの給料はフィリピンは高くて、ジャカルタは安かったわけです。しかしバイクを持てるような人がどんどん出てきているかというと、この国はあまり変わってきていないですね。最低賃金の上がり方を見てもインドネシアだったら2000年代前半でも20パーセントずつ上がっていったりしましたが、ここはその限りではないですよね。フィリピンは特異な感じがします。
編集部
清水さんがフィリピンに初めていらっしゃったときは、フィリピンはアジアの中でも発展している国だったのではないですか?
清水さん
95年くらいの時期は1人頭のGDPはインドネシアよりは高かったかもしれませんが、イメージ的には追いつかれていましたね。発展していたというのはマルコスさんの時代でしょうね。1972年に戒厳令が布告されターニングポイントと言われていますが、そこまでは他の国を圧倒していて、80年代後半くらいまではその遺産を持っていたのでまだ良くて、そこからは他の国が伸びてきて、90年代半ばくらいではちょっときついかなというイメージですね。
編集部
フィリピンは最後のマーケットということでラストチョイスと言われるそうですが、御社においてもやはりそうだったのですか?
清水さん
フィリピンに進出という意味では、生産拠点としては90年代後半までは結構そうでした。PEZAができた直後に大きな工場を先駆的にラグーナに造ったのです。そこはハードディスクドライブなどをやっていたのですが、既にそのビジネスはウエスタンデジタルに売ってしまっています。なので90年代終わりくらいまで生産拠点は進出をしていて、あと大きなところでは、これは連結から外れていますけれども、88、9年に火力や産業用のボイラーの工場をバタンガスに作っています。ただ、最近の生産拠点としての進出はほとんどゼロなんです。今まで出ていたところを拡張というのはあるのですが。最近はマーケットという位置づけで来ている会社が多くて、パワーショベルですとか鉱山や建設現場で使う建設機械などです。日立建機というところがやっています。日立建機もしばらくここのマーケットをやっていなかったのですが、2012年に再度代理店を決めてやるようになったら売り上げが伸びてきました。最近また変わってきているのですが、ここ数年資源価格が低迷していて、例えば資源に依存しているマレーシアやインドネシアは市場が冷えてしまったんです。ところがフィリピンは資源に依存というよりもコンドミニアムなどの街中の建設が多いので、底支えしています。また、エレベーターやエスカレーターですね。代理店がやっていただけだったのですが、2011年に代理店を買収して完全子会社化してそこから本格的にやるようになったのですが、これもどんどん伸びてきています。しばらくフィリピン国内のマーケットをやっていなかったのですが、またやり始めたビジネスと新しく始めたビジネスの両方があるという感じです。家電なども実はそうですね。1986年までここで合弁会社を持っていたのですが、それを解消して、2015年から新たに冷蔵庫などをやり始めて、最近はテレビも始めました。
編集部
フィリピンでは鉄道も入ると言われていますが、その辺に力を入れていく感じですか?
清水さん
そうです。どちらかというとBtoCからBtoBに転換していこうと。景気に左右されるビジネスからサステナブルなインフラ系へと。一つの転換と言えば2008年に7800億円の赤字というのがあって、ずっと製造業最大の赤字と言われていました。そこからビジネスを転換していかなければいけないと。大きな流れとしては二つあり、半導体やハードディスクドライブはいいときはいいのですが、市況が悪くなるとぐちゃぐちゃになります。あとは製造の拡張などの投資をするタイミングは難しいんです。そして、それは日本の会社は得意じゃないのではないかと気づき始めたんです。何故かというとそういう分野で強いのは韓国とかアメリカなど、ある種オーナー企業であったり専業メーカーでなんです。日立のようないろいろなビジネスをやっていていろいろな判断をしなければならない、オーナー企業でもないところがなかなかでき得るところでもない。どうしてもスピード感が遅くなってしまうので、そういった変動の激しいビジネスに対してのスピード感を我々は持ち得ないというのがあります。そういった流れで、BtoBのビジネスに転換しようとしているのが一つと、あとは直接的な話ではないかもしれませんが、プロダクトベースからソリューションやサービス事業への転換だろうなと思います。結局プロダクツというのはどんどん競争が激しくなってきてしまって、例えば技術革新をやっていくと平気で金額が10分の1や100分の1になってしまうんです。そこで頑張るのか、という話です。プロダクツはどこかから買ってくればいいと。そうではなくて、ソリューション提案をしたり日銭を稼げるようなサービス事業に転換していかないと多分もたないだろうなというのが、2008年以降の我々の構造改革であったり事業再編している流れです。
編集部
フィリピンでBtoBにシフトしていくのは大変な感じがしますね。
清水さん
例えばインフラ一般というくくりで言うとフィリピンは特徴のあるマーケットで、何かというとアジアにおいてインフラというのは官がやっているんです。典型的な例だとインドネシアやベトナムですが、政府がやっています。投資規模も大きいし、すぐリターンが来ないわけです。ところがフィリピンの場合、90年代半ばに官が諦めてしまったわけです。ラモス大統領のときに、電力もそうですし、通信、道路、鉄道も一部そうですが民間がやっているわけです。それこそサンミゲルやパンギリナングループがやっていますよね。電力にフォーカスすると、日本は発電、送電、配電、これらを分けましょうと。今までは東京電力が地域独占といって東京近辺で全部やっていたわけです。そうなると競争原理が働かないから分けましょうということになってきているんです。ところがフィリピンはもう完全に別れているんです。発電においても国の関与がなくて民間なんです。他の典型的な東南アジアの国と比較してみると意外と経済原理が効いていて、我々が日本で効率性がいいものが売れる環境にあるんです。フィリピンは電力料金が高いですよね。何故かというと補助金を政府が出していないからです。インドネシア、ベトナムはまだ出しています。それで高いとどうなるかというと、例えば効率性のいいものがそれだけ効いてくるわけです。補助金をもらって安くしているところは効率性のいいものを持っていっても「どうせ補助金もらっているからいいよね。」ということになります。そういう点で、割と面白いマーケットだと思います。あとは発電の例で言うと民間でやっているので、民間事業者もやっているし、東京電力も電源開発も出資していますけれど、そういった人たちは自分たちのプラントだから自分たちの基準でメーカーを選べるんです。ちょっと高くても日本製が欲しいとなれば日本製を買うわけです。ところが国がやっていて、例えばODAだとか外部の資金を使ってやると外交問題になるわけです。なので中国が言ってくるわけです。OECDのガイドラインがあってそれを満たしているのに何故中国を排除するのかと。政府間同士の話になってしまうんですね。なので、フィリピンは完全に民間が動かしているので面白いわけです。難しい面はもちろんあって、それは何かというとマーケット自体が小さいんです。インドネシアの例で言うとPLNという電力会社があるのですが、インドネシアほぼ全域の電力をやっています。対して一民間企業がフィリピン全土の発電所はできないのでせいぜい2〜3個です。我々とすれば日本から攻める場合に、インドネシアに行けばほぼ全土の話ができるのと、2〜3個しか話ができないとなれば、インドネシアを選びますよね。ということで、日本にいたときはフィリピンのマーケットは小さく見えてあまりフォーカスしてこなかったです。
編集部
今そこにフォーカスし始めた理由というのは?
清水さん
それは僕がここに来たからです。(笑)日本にいたときはフィリピンにフォーカスするメリットも分からず、ようやくこちらに来てから真剣にやるようになって、こういう面白いところがあると分かったというのが本音です。
編集部
どこがやはり面白いと思われました?
清水さん
民間事業者が投資をするというところです。国がやっている場合というのは政府の補助金とか、政府系の企業が健全でないケースが多いんです。普通の民間企業みたいに儲けを出して、自分たちの判断で投資ができないのです。経済効率性がなければ買ってくれないのですけれども、あれば投資をするわけです。
編集部
経済効率性はイコール御社の強みになってくると思いますが、それは具体的にどういった点ですか?
清水さん
クラークのグリーンシティでもエネルギーマネジメントと称して、電力と熱などをいかに最適化して供給できるかというシステムを組もうとしています。プロダクツもありますし、IT×OTと言っていますが、OTというのはオペレーショナル・テクノロジーのことで、例えば日本で新幹線の制御を日立が納めているのですが、5分おきくらいに新幹線が出る、その制御をやっているんです。ITやOTに根ざしつつ、かつプロダクツもあります。プロダクツにこだわるわけではないのですが、そういった統合的なソリューション提案ができるのが強みだと思います。
編集部
OTのところですが、フィリピン人は何かを決めたはいいものの運営がダメになる傾向があるように思います。そういう部分はどうお考えですか?
清水さん
今で言うとMRTの問題などがありますよね。我々だけでなく日本勢が鉄道の通勤線を円借款でやります。保守をずっと三菱重工さんと住友商事さんがやってたのですが。3〜4年前に変えてしまったんです。それこそ半年毎くらいに変えてしまって今現在やっているのが韓国企業なんですが、また問題が起きていますよね。確かにオペレーションのところに問題があって、ホテルなんかも5年前にできたものがもうひどくなっているところがある。だからある種飽きっぽいというか、最初の投資で半年くらいでリターンを稼ごうとしているのか。話が飛びますが、グリーンベルトだって家賃がどんどん高くなっているんですよね。普通長くいれば家賃は下がっていくはずですよね。3年で元を取ろうとするということは3年経ったら出て行くということですから。なぜそういう発想になるかは分からないですけれど。なので今、東京メトロだとかJRだとかが日本政府のサポートを得て、もうちょっとそういうオペレーションやメンテナンスの方に入っていこうとしていますよね。オペレーショナル・テクノロジーというのがありますけれど、やっぱりメーカーとしてのものであって、JRさんの新幹線の制御システムですと、オペレーター側からの観点からするとそこはやっていないから分からないんです。なので、電力でいったら東京電力さんなり電車でいったらJRさんが詳しいので、そういう足りない部分は協力し合ってやっていこうというところです。
編集部
フィリピンにサービスを提供するときも日本の技術を取り入れたり、パッケージとして持っていくイメージですね。
清水さん
ただし、その中のコアな部分を見極めてやっていかないとダメですね。
編集部
フィリピンで事業をする上で苦労している点は?
清水さん
先ほどと相反するかもしれませんが、インフラにフォーカスすると民間がやっていていいところと悪いところがあって、悪いところというのは国としての方針はあるもののそこがどうしても民間主導になっていて国が弱いということですね。何が言いたいかというと、例えば通信はこの国は弱いですよね、というのは2社しかなくて、寡占になっています。先ほど言った民間がやっているいいところもありますけれど、ここは難しいところですよね。あとは水ですが、数年後にはマニラに水不足が来ると言われています。マニラ首都圏は2社でやっているわけですが、2社とも水源は一緒なんです。アンガットというところから持ってきているのですが、そこがどうにかなってしまうと終わりです。マニラ湾ではデサリネーションといって海水の淡水化するのをどうするのかとか、またラグーナ湖からも持ってきているのですが、ここでは少し海水が混じっていたりするんです。そこでダムを作ろうとなっても、国が主導権をもってお金を落としてやらないと一民間企業ではできないわけです。。あとはレギュレーションの問題で、電力の分野でいうと、今ピークシフトと言っていますが、日本でも今は原子力発電所はあまり動いていませんが、原子力発電所や火力発電所というのはなかなか停められないんです。例えば一日動かして一日停めるというのができないんです。起動するまでにも時間がかかるので。そういうのをベースロードというのですが、電力の需給というのは当然昼間増えて夜落ちるわけです。そうなるとベースロードの電源をどうやって貯めるかというのがテーマになります。5、60 年前からやっているのは、余っている電力を夜間、揚水発電所というのですが、下ダムから上ダムに上げるんです。そうすると昼間電力が足りないときに落とせばそれで発電所が回るんですね。貯められない電力をどうやって貯めるのか、ということが長年のテーマでなんです。蓄電というのは蓄電池、バッテリーのことですが、これからのテーマになってきていて、水力発電のケースなどはあるのですが、水力発電所なんかを作っていたら周辺住民の了解を得るのに20年はかかるんです。日本ではもうなかなか作れない。そこで電池ですが、電池の性能は近年よくなってきているんです。なので電力用のキャパシティのある電池で、かつそれほどパフォーマンスが落ちないもの。ケータイと一緒で数年ですぐ落ちてきてしまいますが、電力を貯められる電池が使えるようになってきたんです。この国でもそれをやりましょうという動きになってきているのですが、そこの制度設計、レギュレーションが未だ整備されていないんです。そういった難しさはあります。
編集部
フィリピン人スタッフの優秀なところ、大変なところはありますか?
清水さん
私は何カ国も見てきていますが、フィリピン人はまず優秀です。言葉の問題もあるとは思いますが、プレゼンやディスカッション能力に長けていますし、ビジネス上で優秀ですよ。あとはプレゼンマテリアルを作ったり、マーケティング調査のまとめ方だとかは素晴らしいと思います。大変なところは正直感じていないです。パーソナルにやる部分が多くて、例えば日本のオフィスで日本人ならどうなのかとか見た場合に、あまりステレオタイプ的にこの国の人はこうだ、というのはないような気が最近はしています。日本人同士でも、この人はダメだな、という人は結構いますしね。だからあまり国のキャラクターは感じないのですけど、フィリピン特有の難しさは、人をどうやってキープするか。ジョブホッピングの件ですね。どの国でも特に若年層はそうですが、フィリピンの場合では海外に簡単に行けてしまう。海外に行ってしまうと給料が普通に2〜3倍になってしまいますよね。これは近隣諸国にはない難しさだと思います。あとあえて言うとすると女性が優秀でうちのオフィスも半数は女性ですが、もちろん働ける環境は日本に比べると整っていますが、いいメイドが見つからなくて辞めなければならないとか。どうしても家族優先なのでそういう部分はありますね。
編集部
清水さんは今マニラ日本人会の会長も務められていますが、そこではどういった活動をされているのですか?
清水さん
いろいろありますが大きなものとしては、診療所のオペレーション、日本人学校の運営、各種イベントですね。盆踊りや文化祭などです。
編集部
グローバル化の走りからずっと海外を見られている清水さんから、フィリピンにこれから来ようとされている方へ何か助言はありますか?
清水さん
あまり偉そうなことを言える立場ではないのですが、我々のグループや会社もそうなんですが、僕が入社してからしばらくというのは海外でビジネスをやる人はすごく少なくて。僕らもそれなりに日本で教育を受けて海外とはこうだということを勉強してきたわけですが、そういった教育を受けずにいきなり来てしまっているケースが非常に多い気がします。最低限海外で住んだり仕事をする上でのルールがありますよね。文化的なところでも、マレー系だと子どもの頭を撫でてはいけないとか、あまり人前で怒鳴ってはならないとか。ビジネス的に言っても、ブロークンイングリッシュというのは全然構わないと思いますが、使ってはいけない言葉がありますよね。会議でそういう言葉を使ってしまったりする人がいるわけです。そういったことはネットにも出ているので最低限のルールは覚えてきて欲しいなと思いますね。
編集部
心に残っている本はありますか?
清水さん
アメリカの小説で『リプレイ』です。ケン・グリムウッドという人が書いた本なんです。10年以上前に読んだのですが、冒頭で40歳くらいの主人公が心臓発作で死んだ後に18歳くらいに生き返るんです。そしてまた同じ年齢のときに死ぬというのを繰り返します。そうすると未来のことを知っているので、競馬をやったり、流行るものを仕事にしたりして稼いでいくわけです。ところが何回か繰り返すと飽きてくる。しかも18歳から40歳くらいまでの20年ほどを何回もやらなければならなくて、最後に生き返ったときには結局40歳では死ななかった。結末はよく覚えていませんが、つまり、明日何が起こるか分からないということはなんて楽しいことなんだろうと。いいことも悪いことも含めてですが、そうすると人生が楽しめそうな気がします。
編集部
プライベートな時間は何をして過ごしていますか?
清水さん
ゴルフもやりますが、スキューバダイビングですね。アニラオに行ったり色々なところに行きました。ホーリーウィークにモルジブにも行きましたがよかったですよ。6月はトゥバタハに行きました。船で行くと5〜6泊しないとならないんです。3月から6月くらいまでしか行けないそうで、ホーリーウィークに行こうと思ったのですが、予約がいっぱいでしたね。
編集部
ご自身の今後の夢や展望は?
清水さん
なるべく早く仕事は引退して南の島に移住したいですね(笑)。僕は今52歳ですが、欧米人は50歳でリタイアしますからね。一番の理想はハワイなんですけどね。暖かいし、ゴルフとかダイビングとかができればいいですね。