日本で培った旅行業のノウハウでフィリピンの顧客獲得を狙う
JTBアジア・パシフィック 取締役兼マニラ支店長
岡川 知行さん
1964年東京生まれ。上智大学外国語学部英語学科卒。1987年、某大手企業の営業部門に就職後、JTBに転職。都内の海外旅行を扱う支店を皮切りに、2001年フランクフルト支店、2009年からはシンガポール支店に勤務。2013年マニラ支店の設立時に来比。マニラの鉄道も全線走破している鉄道ファンでもある。
〈座右の銘〉
紀行作家、鉄道作家の宮脇俊三作『時刻表2万キロ』です。当時の国鉄は延長2万キロあったのですが、それをサラリーマンをしながら走破するというドキュメンタリーです。この本がきっかけで鉄道が好きになりました。当時、鉄道ファンの本は出版界ではゲテモノ扱いでしたが、日本ノンフィクション賞を受賞しました。
2015年にマニラ支店を立上げ、1年目から好スタートを切り、現在はセブにも営業所を構えています。世界中に広がるネットワークやブランド力、どんな手配でも自前でやれるという圧倒的な強みには「おもてなし」を体現できる自信が感じられます。日本への窓口、顔として、まさに日本の広告塔となりフィリピンとの架け橋役を担っています。
編集部
JTBに入社されたきっかけは?
岡川さん
実はJTBに入る前は、メーカーの営業として勤務していました。これは父親の影響が大きかったです。私が小学生から中学生にかけての3年間くらい、父親が駐在員としてアメリカのデトロイトに行っていました。車のメーカー勤務で、バリバリの理系のエンジニアであり、英語も非常にできました。その父の影響もあり、男はメーカーというイメージがあったので、大学卒業後、最初はそういう方面に勤めることにしました。
メーカー勤務の当時、会社自体に不満を持っていたわけではないのですが、JTBの広告を見たのがきっかけでした。ある日、新聞広告にJTBの中途採用の広告を見つけて、応募しました。「あなたの旅行に対するパッションをぶつけてみないか!」と言う広告を見て、気がついたら履歴書を送っていた、という状態ですね。もともと旅行が好きで学生時代も旅して歩いたり、国内の鉄道の周遊券を使って夏休みには2ヶ月間北海道に行って居候しながらアルバイトをしたりしていました。上智大学の学生の多くは都内で予備校の先生として時給数千円のアルバイトをするのですが、私は時給300円で賄い付きの民宿で働いていました。バックパッカーをそこで出迎えていましたね。
編集部
見事、JTBの採用試験に合格されたのですね。
岡川さん
採用試験には受かりましたが、別の問題がありました。自宅に戻って両親に「転職するから」と伝えたら、父と大喧嘩になりました(笑)。最初の会社では海外で勤務する可能性が高かったこともあり、父は非常に喜んでいました。納得してもらうまで数年はかかったと思います。JTBと聞いて、「宴会のときに横で座持ちするだけじゃないか!」とか、「切符を売ってどうなるんだ、そんなつまらん仕事を!」とか「男はものを作ってなんぼだ!」と言われました。
実際、その当時のJTBのイメージはそういうものでした。国鉄がJRになる前まで、JTBは国鉄の定期券や乗車券の代売のビジネスで1番シェアがありました。国鉄の下請けという形でした。ところが国鉄がJRになった途端に、JRが自分たちで会社を作り、自前で営業するようになりました。駅の中にあったJTBの店が出て行くようになり、びゅうプラザに変わっていきました。私がJTBに入社したのは、そのようなタイミングでした。
編集部
父親にそこまで言われても情熱は変わらなかったですか?
岡川さん
はい。もう無理矢理入りました。前の会社では独身寮に入っていて既に独立していまして、転職すると決まってからは、しばらく家には帰りませんでした。最近、父は亡くなったのですが、あるときに聞いた話によると、会社で「息子がJTBに入ったので、今度そこを使って旅行に行ってくださいね。」と言っていたらしいのです。
父親はJALのグローバルクラブの会員を何年間も続け、海外を飛んで回った人でしたけれども、定年で出向が終わってからは海外には全く行かなくなりましたね。父親は、シンガポール、オーストラリア、アメリカに15年間もいたのですが、赴任していた国にも全く未練がないようでした。父がシンガポールにいたときは独立前でしたので、私がシンガポールに駐在していたときに「シンガポールはとても変わったよ。」などと話して来るように誘ったのですが、父はかたくなに「行かない。」と言って断り続けましたね。
編集部
学生の頃はどこを旅行されましたか?
岡川さん
国内旅行が多かったですね。それから、当時流行っていたヨーロッパにバックパックで行って、鉄道のパスで夜行列車で泊まりながら旅する、というのもしました。
編集部
どこが1番印象に残っていますか?
岡川さん
北海道の知床半島のウトロというところで、夏の知床半島をめぐる船の発着場となっている地域です。温泉も沸いていますし、山もあります。そこにお土産屋さんや民宿がいっぱい並んでいて、そこで住み込みして働いていました。
編集部
JTBに入ってからはどのような部署で働かれていましたか?
岡川さん
東京都内で海外旅行ツアーを販売する支店に配属になりました。国内でJRの切符を売ることはなく、入社してからずっと海外旅行関係の部署にいます。法人のお客さまの旅行や行政の視察などのツアーを組んでいました。シベリア遺骨収集の旅というのもありました。当時からフィリピンのツアーもありましたよ。1990年代初めはベトナムがブームになっていまして、企業進出や投資環境の視察ツアーを担当していました。
編集部
変わったツアーはありましたか?
岡川さん
日本とカザフスタンの友好が目的で日本からカザフスタンに40名ほど連れて行ったツアーがありました。添乗員は私1人で政財界関係の上層部の方が参加されたのですが、当時ソビエトから独立したばかりのカザフスタンは本当に何もなかったです。欧米視察のきらびやかな雰囲気からはほど遠く、薄暗い電気が灯ったホテルとぬかるんだ道ばかりが印象に残っていますね。それに比べると今のマニラはピカピカですよ(笑)。
編集部
その部署に何年間ほどいましたか?
岡川さん
11年間いました。その間に結婚して子供も生まれましたね。
編集部
海外へは添乗員として行くことが多かったですか?
岡川さん
私は年に4、5回行くことがありました。同じ部署の中でも、人によっては毎月海外に行っているケースもありました。私は様々な部署のオペレーションや統括をしていましたので、営業担当がお客さまのところに行って取ってきた仕事を、海外とのやり取りなども含めて私たちのチームが形にしていました。パソコンはやっとウィンドウズが導入された頃で、最初入ったときはまだファックスが主流でしたね。ロシアとやり取りする際、ロシアは通信が悪くて途中で切れてしまうのでテレックスを使っていました。
編集部
当時、ロシアの旅行を扱える会社は少なかったのでは?
岡川さん
そうですね。公的な団体、官公庁のお客さま、商工会議所のお客さま、経団連などのアテンドでした。時差の関係で昼夜逆転みたいな状態もありましたね。体力的には厳しい仕事でした。
編集部
11年間、そのオペレーションの部門にいて、その後は?
岡川さん
日本国内でオペレーションの部門に11年間いた後は、ドイツのフランクフルトに赴任しました。これが初めての海外赴任です。ドイツには6年間いました。そこでは日本から来られるお客さまのツアー手配、ツアー中のお客さまのケアや緊急時の対応などの業務がありました。ヨーロッパではフランス、イタリア、イギリスに次いで、ドイツへお越しになるお客さまが多かったです。ドイツの先進的な環境技術の見学ツアーもたくさんありました。
赴任して半年経った2001年9月に、9・11テロが起こりました。全部のヨーロッパ諸国の支店マネージャーがロンドンに集まって会議をしている最中でした。そのとき、「ニューヨークでとんでもないことが起こった!」ということで会議が中断になりました。ホテルのロビーに行ったら普段は置いていないテレビが置いてあり、事件の瞬間が繰り返し映像で流れていました。「物騒なことが起こって、危ないね。」と言いながらみんなで食事をとった後、赴任地に戻ったら、日本から来るはずになっていたツアーが片っ端からキャンセルになっていました。「ドイツのどこかにイスラム過激派のアルカイダが潜伏していて、次はヨーロッパの主要都市が狙われる。」という情報が報道で出たようで、ドイツでは多数のキャンセルが出て、フライトがガラガラという日が続きました。
このとき、どの国からもアメリカへの飛行機は飛びませんでした。逆に、ツアーでアメリカに行った弊社の社員は留め置かれてしまい、体育館で寝泊まりしたそうです。何か大事件があった場合、たとえホテルのチェックアウトの日でもチェックアウトしないというのが旅行業界の鉄則です。「フライトが飛ばないから。」と言えば、後から来た人はそれを退けることはできません。残念ながら、日本の団体は朝のフライトでしたので、チェックアウトしてしまっていました。それで、空港で待っているときに事件が起きました。空港に行って飛行機が飛ばなくなるのは最悪の状況で、泊まっていたホテルに戻ろうにも空きがありません。全員がアメリカから帰国できるまでに10日間ほどかかりました。
編集部
そのとき、ドイツではどのようにして切り抜けたのですか?
岡川さん
正直、手の打ちようがなく、厳しかったですね。赴任したばかりなのに「帰任になるかもしれない。」と言われました。それほど状況は深刻でした。一旦、ドイツ支店を縮小する方向となりました。しかし、半年ほど経過したところでお客さまが戻り始めたので、結果的に撤退は免れました。
編集部
印象に残っているドイツでのお仕事はありますか?
岡川さん
ドイツでは、とある企業の販売店の報奨旅行で、4,400人という大きな団体を現地で受けて、スムーズにツアーが回るように手配しました。1回では飛行機が足りないので、6班に分けました。東京、大阪、名古屋からフランクフルトに来て、ドイツを旅した後にパリまでバスで行くツアーです。パリまでは、途中シャンパーニュ地方に寄りましたが、10時間の道のりでした。その後パリに4泊して帰るというツアーでした。
ドイツでは1班3日間ずつ、重ならないように分け、約3週間かけてツアーを実施しました。バスは20台を使用しましたね。添乗員の数は200人、ホテルは延べ15,000泊ほどになりました。これはもう大変でしたね。
JTBの強みは 先輩方から受け継がれたノウハウがあり、大所帯でもツアーを運営することができます。どのように荷物を積んで、どのように分けて運べば、ホテルのお客さまの部屋に早く入れられるかを何回もシミュレーションしました。特に食事は重要で、何回も味見しましたよ。ソーセージと酸っぱい味のキャベツばかりで頭を悩まされました(笑)。入念な準備のおかげで大きな問題もなく、皆さま元気にパリに旅立っていかれましたね。
編集部
オペレーション畑でやっていたときのノウハウがそういうところで生かされるのですね。
岡川さん
そうですね。仲間もいっぱいできていたので、色んな人に助けてもらいました。 それから、ドイツでの私の最後の仕事はサッカーW杯のドイツ大会でした。ジーコジャパンです。日本からサポーター2,000人くらいがチャーター便に乗って来ましたよ。ルフトハンザドイツ航空、JAL、ANAがそれぞれ特別チャーター便を飛ばしていました。観戦ツアーで来るお客さまの入場券を準備しました。ホテルが本当に取れなくて、田舎のホテルも含めて手配しましたね。当日3試合とも会場にいましたよ。ほとんど見ていないですけどね(笑)。オーストラリア戦だけは中に入ってちょっとだけ見ました。その時は勝っていて安心して会場を出たのですが、終盤に失点を重ねて負けてしまいました。歓声が上がったので追加点かと思いましたが逆でした。試合後はお通夜のような感じでしたね。そのようなスポーツイベントでも仲間たちに助けられました。
編集部
ドイツの次はどちらへ赴任されましたか?
岡川さん
一度日本に戻り、2年後の2009年にシンガポールに行きました。マリーナベイ・サンズが完成する前でしたね。着々と工事は進んでいき、最後に空中庭園「サンズ・スカイパーク」がヘリを使用して頂上に乗せられるところを見ていました。
編集部
SMAPのCMの影響で、マリーナベイ・サンズへの問い合わせが殺到したそうですね。
岡川さん
「あれはシンガポールのマリーナベイ・サンズというカジノホテルの屋上のプロムナードです。」と回答していました。あのCM以降、途端にシンガポールにお客さまが押し寄せました。その前の年まで、実はシンガポールのお客さまの数は微減していました。80〜90年代はシンガポールは人気があり、社員旅行などでよく来られていたのですが、2000年になってからは人気が落ち着いていました。それから2003年に香港でSARSがありましたよね。その結果、シンガポールも衛生的に疑問視されてしまい、客足が遠のきました。そのような状況でしたが、マリーナベイサンズができてからは人気が回復しました。CMの効果ですね。
当時、シンガポール支店というだけでなく、地域本社としてアジア全体における経営企画を担当していました。これから進出すべきエリアを決定し、他社と提携したり、企業買収を進めたりしていました。
編集部
その頃、東南アジアへの旅行者が段々と増え、企業もアジアに目を向け始めていたというタイミングですか?
岡川さん
そうですね。東南アジアの勢いをとても感じましたね。2009年~2011年はベトナムとインドネシアが人気でした。2012年くらいにミャンマーが突然注目されました。投資見学ツアーが多かったです。その当時、フィリピンの人気はあまり感じませんでした。
訪日インバウンドに関しては、2010年頃までは少しずつ増加していましたが、2011年の東日本大震災と放射能の影響で一気に減りました。翌年には客足が戻り、そこから先はどんどん伸びています。
編集部
ヨーロッパと比較して、シンガポールを含めた東南アジアはどういう印象ですか?
岡川さん
熱を帯びたエリアという印象を持っています。一方、ヨーロッパは大人でお洒落な印象です。例えば、フィリピンにもお洒落なお店はありますけれど、ヨーロッパには及びませんよね。ヨーロッパにはクラッシック音楽が似合いますが、フィリピンでは合わないのに似ているかもしれません。でも東南アジアのパッションは本当に凄いです。それに比べてヨーロッパはある意味、もう枯葉みたいですよ(笑)。そういう違いがある2つの地域を経験できたのは貴重な財産です。
編集部
フィリピンに来られたのは2013年からですね。
岡川さん
そうです。もう4年半ですね。会社を立ち上げる前に調査で来ていた期間がありました。現在の会社ができてからは2年間くらい経ちました。
最初はたった1人で会社設立の準備をしていました。何をするにも1人で結構きつかったですね。「フィリピンに4年半もいてエンジョイしていますよね。」とよく言われるのですが、最初の2年間はアングラのような活動しかできず、大変でした。現地の企業と資本提携する手前で白紙撤回になったり、日本側からも梯子を外されたりして、身の危険すら感じることもありました。安心して仕事に打ち込めるようになったのは最近のことです。
編集部
現在、御社は世界にいくつ拠点がありますか?
岡川さん
世界37カ国で海外支店が110以上あります。国内外で営業拠点が1,000くらいあります。フィリピンではマニラとセブになります。マニラは2015年4月、セブが2016年4月にできました。その前までは他の旅行会社さまの一角に席を置かせてもらっていました。
編集部
マニラとセブの役割は、どんな違いがありますか?
岡川さん
マニラでのメイン業務は、アウトバウンドと言いまして、フィリピンから外の国に行かれる、個人と法人のお客さまのご対応です。それだけでなく、マニラはカジノや高級ホテルが増えていて、それを目当てにいらっしゃるお客さまもいますので、そこは弊社としてもしっかりニーズを捉えて事業に組み込んでいます。
セブの場合は、リゾートですので、日本人を含めた観光客がセブに多く訪れます。私たちはインバウンドと呼んでいます。セブではその対応がメインですね。
編集部
マニラから日本に行く人は増えていると聞いていますが、セブからも日本に行く人は増えていますか?
岡川さん
最近はセブからも日本に行く人が増えています。航空券やJRのチケットなどを販売するカウンターを設置し、法人営業の担当者も配属しました。
編集部
フィリピンは御社にとってどのような位置付けですか?
岡川さん
私たちにとって、フィリピンは高いポテンシャルを感じる国であり、最重要拠点になりつつあります。フィリピンへのインバウンドは大きな伸びはありませんが、フィリピンから外へ出るお客さまが増えています。それから、日系企業を含めてフィリピン現地の企業は、企業価値を高めるためにインセンティブ旅行を実施する機会がこれからもっと増えると考えております。
編集部
フィリピンではインセンティブ旅行が多いですよね。
岡川さん
フィリピン人の方は旅行をトップ・プライオリティで考えています。30年前の日本に近いイメージです。バブル時代の日本でご褒美というと、販売店を招待して、熱海などで温泉三昧、宴会三昧というのがありました。さらにランクアップしてハワイやヨーロッパにご招待とかもありましたね。当時の日本では、企業としては旅行が節税にもなりましたし、社員に対するインセンティブの効果もありました。社員のモチベーションが上がるし、一体感も得られました。今の日本ではそういうのはないですけれども、フィリピンはその段階にあると考えています。
フィリピン人は旅行好きです。ですので、インセンティブ旅行で連れて行ってもらったところに、今度はプライベートで行こうというお客さまが増えてくると考えています。その意味も含め、最重要企業拠点になりつつあります。経済が好調ですし、他のリスク要因も少ないです。ただ、政治や治安面に問題がありますので、そこが安定すれば、という条件が付きますね。
編集部
他国に比べてもポテンシャルが高いと思われますか?
岡川さん
そう思います。まず人口が継続して増えます。社会に持続性がある国は投資の面で魅力的です。フィリピンに投資する企業がもっと増えると予想しています。
編集部
フィリピンで事業を行う魅力はどんなところですか?
岡川さん
私たちはサービス業なので、フィリピンの方々のホスピタリティの高さやフレキシビリティーは、会社をマネジメントする上で合っています。「いらっしゃいませ。こちらはいかがですか?」という接客がマニュアル無しで自然とできます。例えばシンガポールでは、社員は仕事はきっちり行いますが、愛想がなく冷たい感じがします。それに比べるとフィリピン人はまず笑顔に溢れていますよね。「感じが良い」と言ってくださるお客さまが多く、それがサービス業としては1番の魅力です。
編集部
逆に問題点はありますか?
岡川さん
サービス業として、時間にルーズなところがあるのが問題です。朝の出勤で遅刻すると厳しく対応します。社員は皆、それを分かっているので、朝は始業時間までに必ず来ますね。社内で私は怖い存在だと思います(笑)。逆に、時間さえ守ればどんな問題も何とかカバーできます。
あとは、やはり交通渋滞ですね。法人チームはラグナやカビテ、バタンガス、ケソン、クラークの方面に行きます。渋滞の影響でスケジュール変更は当たり前ですし、訪問できる企業の数も1日に多くても3社です。効率が悪いですよね。
編集部
それはどのように解決されていますか?
岡川さん
なるべく皆で相乗りして、工業団地に行くようにしています。それぞれが同じ時間帯に各企業にアポイントを入れます。そして打合せが終わったら皆で揃って帰ってきます。そうすると効率よく回れますよね。
編集部
先ほど遅刻がないとおっしゃっていましたけれども、最初からそうだったのですか?
岡川さん
そうですね。最初から厳しくしていました。色々な方から話を聞いて、フィリピンの人は時間にルーズであることを予め知っていました。弊社のようなサービス業では、時間にルーズだと致命的になってしまいますので、とにかく入社面接時も正社員登用時も、時間厳守を採用配点で最大にしました。弊社では、どんなに他の点が優秀でも遅刻を何回もする人は正社員に一切なれません。
編集部
マニラで旅行業をしている会社はローカルにも多くありますが、ローカル企業と比べて御社の強みとは?
岡川さん
全世界にネットワークがありますので、お客さまのご要望に合わせて、どのような手配でも承ることができます。もちろん日本への旅行に関しては圧倒的です。そして、それを誰かに丸投げせずに、自前で実行できる力があります。また、業界の中でブランド力があり、それは少なからずフィリピンでも強みになっています。
Airbnbなどの民泊関係のサービスも出てきています。私たちはそのようなサービスを事業の1つとして取り込むのか、それともホテルや旅館との連携をもっと強化していくのか、見定めている段階です。とある民泊関係の会社を買収したりもしています。
編集部
フィリピンでは民泊需要が高いと感じています。とにかくプロモチケットで安く行こうとする人たちが多いので、そういう意味では追い風ですよね。
岡川さん
自社で民泊まで手配できて、なおかつ手数料も取れる仕組みができたならば、大きな強みになりますね。そういう新しいサービスも排除せずにある程度試しながら、何でもこなせるエージェントになるべきだと考えています。
また、日本ではホテルの数が足りませんので、民泊が広がらないと訪日人数は伸びない思います。民泊が広がれば、ホテルがあまり整っていない地方でも海外の人が行けるようになります。
編集部
新しく民泊関係のサービスが出てきた一方で、ホテルや旅館のサービスはどのようにお考えですか?
岡川さん
ホテルや旅館を利用するときと、そうでないときのすみ分けが進むと考えています。ホテルや旅館が民泊の勢いに負けるとは思いません。家族で安心してゆったりと宿泊したいときなどはホテルや旅館が選ばれます。民泊では予測できないことがあったり、自分で準備しないといけないことが増えたりします。
そうではなく、バックパッカーなど、未知の家との遭遇を楽しむような目的で旅行する場合は民泊が適していますよね。私たち日本人からしたらヨーロッパに行って、Airbnbでパリのアパルトマンなどに泊まってみたら良いと思います。逆に海外の人が日本に来たら、一泊だけでも旅館にチャレンジしてもらいたいですね。日本の温泉を体験してもらいたいです。その結果、「もう二度と行かない!」か、「また行きたい!」に分かれます。それで良いと思っています。
編集部
2018年度にJTBでグループ再編するというニュースがありましたが、これはフィリピンでも影響がありますか?
岡川さん
フィリピンでは影響ありません。今回統合されるのは日本国内です。現在、JTB西日本やJTB九州となっているのがJTBに統一されます。
編集部
訪日インバウンドがフィリピンでも盛況ですが、御社はどのような戦略を考えていますか?
岡川さん
特に富裕層の獲得が重要です。訪日に関して、私たちは他のローカルエージェントよりも、お客さまからのどのようなご要望にも対応できるという強みがあります。値段は多少かかっても、「これがしたい!」と言うお客さまはフィリピンにもいます。個々のお客さまのご要望に合わせた旅を提案できるチームを編成していきます。
日本国内ではロイヤルロードという事業を展開しています。ファーストクラスのラウンジのようなお店を弊社が構えていますが、そこにご来店するお客さまはあまり多くありません。実際はお客さまのご自宅に直接伺います。お客さまのニーズを聞いて、それぞれのお客さまの好みに合わせて旅行をアレンジします。プライベートジェットを使用して一人あたり数千万円の旅行や、専属の添乗員付きで世界のリゾートを20日間にかけて回る旅行などです。中には、添乗員は近くにいてほしくないが、何かあったときには来てくれないと困る、というようなリクエストがあったりもします。フィリピンのお客さまもそのような旅行をしたい方がいますので、弊社で培ってきた経験が活かせると思います。
編集部
事業として新展開の予定はありま すか?
岡川さん
小売りの店舗網を少しずつ拡大していきます。新しい店舗をマニラ首都圏内に近々オープンする予定です。1年前にオープンした第1号店があるモールオブアジアに続き、次はケソンのノースエドサあたりにオープンしますよ。
編集部
店舗の来客数や問い合わせで、手ごたえを感じていますか?
岡川さん
日本のお店のように、1年中お客さまが切符を買いに来たり、何か相談に来たりというところまではいきませんが、モールオブアジアの店舗は単独黒字です。
日本行きのことでスタッフから直接話を聞きながら商品を選べるのが良いみたいですね。フィリピン人は人と話しをするのが好きというのと、オンラインだけで全て完結してクレジットカードで落とすというのに少し不安を抱いているからだと思います。来店だけでなく、メールや電話で問い合わせも多いです。手続きはメールや電話で済ませ、お支払いのときだけ来店されるケースもあります。それから、お店を持っているということが信用度の高まりに繋がっていると感じます。
編集部
安いのは好きだけれども信用の方がそれを上回るのですね。逆にオンラインでの戦略というのは何かありますか?
岡川さん
実は最初に会社を立ち上げた時点からペイメントゲートウェイを全部整備して、クレジットカードで決済できる仕組みを作ってあります。残念ながら、まだ商品はJRの旅行パスを売るくらいで、オンラインでパッケージ商品を売るのは実現できていません。
ただ、店頭で売っているものと全部同じものをオンラインで売るべきかどうかは悩ましいところです。フィリピンでのクレジットカード詐欺の影響で、フィリピンのクレジットカードを使用して高額商品を買おうとすると却下されることがあります。パッケージ旅行は10万ペソを超えてくるので高額商品の扱いになります。オンラインでの販売拡大は実現したいですが、取り巻く環境に左右されてきます。
編集部
座右の銘は?
岡川さん
よく社員の皆に言っているのは“May the force be with you.”というスターウォーズの台詞です。ツアーやイベントに行く前など、「始まるぞー!」というときに担当者を呼んでこれを言ってます(笑)。
編集部
プライベートの時間はどのように 過ごしていますか?
岡川さん
たまにですが、ゴルフに行ったり、海に行ったりしています。あとは、会社に来たりもしますね。セブの営業所にも月1回ほど行っています。先日ちょうどセブ出張のタイミングでボホールに行ってきました。海が綺麗で良いですね。しっかりしたホテルもあります。
また年に5、6回は日本に出張などで帰るのですが、その際には必ず1本は電車に乗るようにしています。フィリピンでは鉄道に乗りたくても少ないですからね。フィリピンのLRT、MRT、PNRは全線走破しました。JRの車両が使われていますよ。トゥトゥバンからアラバンまで往復しています。205系という埼京線で走っていた車両ですよ。フィリピンでは路線が電化されていないので、1両目にディーゼル発電機を置いて走っていますよ。車体は朽ち果てたようになってしまっていて可哀想です。綺麗に整備してあげてほしいですよね。
編集部
電車愛が伝わりますね(笑)。
岡川さん
マニラの駐在員で鉄ちゃんの人がいたら、鉄道について一緒に語り合いたいです!
編集部
フィリピンで電車に乗った感想はいかがですか?
岡川さん
問題なく走るし、複線ですれ違いもするし、路盤もしっかりしていますよ。多少ぐらつきますけど、思ったよりスッと走行しますね。ほぼ時刻表通りにアラバンまで走りました。マニラでも、もっと電車が走ってほしいですね。
それから、7月のトラベル・マッドネス・エキスポで弊社のブースに飾った「新マニラ」という駅名標があるのですが、これは字体、色、バランス、大きさ、全てがJRの駅にある看板と同じです(笑)。もちろんJR側に全部承認をもらった上で作りました。通常、駅名標の左上にはJRのロゴがありますが、それは勘弁してほしいということでしたので、JTBにしました(笑)。イベント後、廃棄処分されると聞いたので、それを持ち帰ってオフィスに置いてます。
編集部
岡川さんご自身の今後の展望や夢は?
岡川さん
海外に身を置いて、日本との架け橋になり、何かの役に立つのが夢です。会社を通してだけでなく、プライベートも含めてです。どこにいても、常に国と国、国と地域の交流に関わっていきたいですね。JTBに転職してとても良かったです。