第2回 「患者さんと共に」
ビジネスパーソン:マニラ日本人会診療所 メディカルアドバイザー 菊地宏久医師
座右の銘は「メビウスの帯」
●菊地宏久医師
福島県出身。青年海外協力隊の数学教員として1980年、フィリピンに派遣される。フィリピン人医師との出会いが機となり、帰国後は高知医科大学、東京大学大学院で医学を学ぶ。海外邦人医療基金の派遣で2004年~2007年の間ジャカルタにて医療活動に従事。インドネシアでのテロや大地震の体験を通し災害医療の重要さを実感する。東日本大震災の避難所にも赴く。2010年4月よりマニラ日本人会診療所勤務。専門は救急・循環器科・感染症・航空医学。
編集部:マニラ日本人会に勤務されるようになった経緯を教えてください。
菊地医師:今から約30年前、青年海外協力隊員の数学教員としてマニラ市のフィリピン工科大学(TUP)に派遣されました。活動中に素晴らしいフィリピン人医師に出会ったことがきっかけで、医師を志しました。
学生時代は数学を専攻し、大学院修了後にはコンピュータ関連会社に就職しました。しかし利益追求という企業風土にあまり馴染めずにいました。そんなとき、通勤電車で青年海外協力隊募集の広告を見て、世界の中で活動してみたいと思い応募しました。幸い合格通知を頂くことができ、派遣先がフィリピンのマニラに決まりました。このマニラに来るチャンスをいただいたことが、のちに医師を志すきっかけとなり、また医師としてマニラ日本人診療所に勤務することに繋がっていったのです。
協力隊でマニラに派遣期間中のある休暇中、同じ大学に派遣されていた2人の協力隊員らと、フィリピンの医療ボランティア活動に参加しました。フィリピン人の医師や医療スタッフとともに僻地の少数民族が暮らす場所で診療や疾病予防活動を行うというプロジェクトでした。現マニラ・ドクターズホスピタルの医師らと共に軍用トラックで何回も川を渡って行ったのを覚えています。トラックには機関銃を持った兵士が同乗し安全を守ってくれていました。宿泊施設はなく夜は地面にムシロを敷いて寝るという生活のなか、村人や医師たちと朝から晩まで約10日間を一緒に過ごしました。皮膚がぼろぼろになった老人の足に触れながら優しい言葉をかける医師、「胸が痛いよ痛いよ」と訴える幼い女の子にひざまずきながら笑顔で聴診する医師、彼らが一生懸命活動に取り組む姿が今でも目に焼き付いています。
その医療ボランティア活動から戻ってきて数カ月後のこと、思わぬ出来事に遭遇しました。急流下りで有名なラグナ州パグサンハンに友人らと共に行ったときのことです。白人観光客の男性が川で溺れて心肺停止になってしまったのです。突然の出来事に何もできずに立ちつくしている我々の前で、素早く心肺蘇生処置を行い男性を救命した人がいました。それが先の医療ボランティアグループで僻地に一緒に行った医師の一人だったのです。そのとき、私も彼のように緊急時にも毅然として対応できる医師になりたいと強く思いました。
協力隊の任期終了後は日本で勉強をし始め、高知医科大学に入学しました。よき先輩医師や親友に恵まれ医学、医療について深く学ぶことができました。しかし入学してすぐに父が癌で亡くなり、私が小さい時から病弱だった母がまもなく他界しました。精神的にも経済的にもつらい時期がありましたが、いつも支えてくれたのが妻でした。今の自分があるのは妻のおかげだと感謝しています。医師になったのは35歳の時です。
医師になったあとも途上国や世界での医療活動に携わりたいという夢をいつも持っていました。大学卒業後は循環器科、救急科を中心に研修したのち東京大学大学院の医学部に進学しました。ここでは世界中から来ていた多くの研究者たちと出会い、最新の医療だけでなく途上国の医療についても学ぶことができ多くの刺激を受けました。
その後、大学やJICAの仕事でネパールやパキスタン、タイといった国々で途上国の医療に携わっていく中で海外邦人医療基金の存在を知り、2004年~2007年までインドネシアのジャカルタに派遣されました。派遣期間中はインドネシアでの大地震や津波、テロなどに遭い、より災害医療(※)についての重要性を痛感し勉強しました。
インドネシアから帰国後は災害医療の経験を日本で生かすことができればと思い、一般臨床だけでなく災害医療への取り組みも積極的に行っている東海地方の病院を勤務地として選びました。それから3年が経ったときに海外邦人医療基金から再びお話があり、フィリピンでの種々の医療問題について改めて知りました。フィリピンは、私が医師を目指すきっかけとなった「素晴らしい医師」に出会った場所です。協力隊でお世話になったこの地で少しでも恩返しができればと思い、医療活動をすることを決め、マニラ日本人会診療所に派遣されることになりました。これがマニラの地を再度踏むことになった経緯です。
※ 災害時には限られた医療資源(医療スタッフ、医療機器、医薬品等)の中でいかに多くの傷病者の命を救うかが求められます。そのため、傷病者の緊急度や重症度を考慮し、治療や搬送のトリアージを行い加療にあたります。災害現場で傷病者への対応が困難な場合はヘリコプターや飛行機を使用して患者を搬送し圏外の医療施設で治療することもあります。
編集部:フィリピンの医療や病院についてどう思われますか?
菊地医師:フィリピンでの医療活動に従事してからまだ1年半しか経っていないため、私がフィリピンの医療事情について語ることは憚られるのですが……。最も感じることは貧富の差による医療格差です。これはジャカルタでも同様です。貧富の差によって命に平等な機会が与えられていないのです。しかしそのような環境の中にも素晴らしい医師たちがいます。先日ある感染症専門病院へ行ってきました。こちらの病院にはCTやMRIといった設備はありませんが、働いている医師たちは聴診器と理学所見で患者さんの症状を的確に診断、処置をしています。病院設備や医療環境だけで医師を評価してはいけないことを改めて実感しました。
編集部:フィリピンの薬局で販売している薬について菊地先生のご見解をお聞かせください。
菊地医師:ここフィリピンでも多くの薬は処方箋がないと売買をしてはいけないことをみなさんもご存知だと思います。患者さんは病態に応じた適切な薬を適切な期間使用することが大切です。患者さんの自己判断で薬局から不適切な薬を購入し病態が返って悪化している例も多く見られます。早く治したいという気持ちは察することが出来るのですが、患者さんと薬を売る側の双方が気を付けなければなりません。副作用や薬剤耐性のことを考えると的確な処方薬を使用していただくことを是非おすすめします。
編集部:途上国で問題となっている「薬剤耐性菌(治療困難な感染症)」という怖い感染症の原因について教えてください。
菊地医師:薬剤耐性菌というのは、「今まで効いていた多くの抗生物質が効かなくなってしまった細菌」のことです。突然変異的に生まれることもありますが、多くは抗生物質の不適切な使用から生じます。淋菌や結核菌、MRSAなどが有名です。この意味からも不適切な薬剤を自己判断で飲んだり、処方された薬を中断したりすることには危険を伴いますので極めて注意が必要です。社会的責任という公衆衛生的な立場に立って考えることも大切です。
編集部:これから行っていきたいことについて教えてください。
菊地医師:患者さんや医療に携わるフィリピンの方々ともっと深く関わっていきたいと思っています。またクリニック内だけでなく院外においても疾病予防活動や緊急時の処置・対応の勉強会を行っていきたいと思っています。さらにフィリピン人の患者さんで貧困が原因で病院に行けないような患者さんのためにも活動をしたいと考えています。
また未曾有の被害を出した東日本大震災で被災された方々の精神的・肉体的なストレスは本当に辛いものだと思います。私は福島県出身ですので被災者の方々の痛みや悲しみを日々感じています。これから冬を迎え感染症を発症しやすくなります。雪に埋もれたがれき作業などでの外傷にも注意せねばなりません。PTSDなどへの配慮も必要になります。一人ひとり体調に気をつけて命を大切に生きていただきたいと思っています。今後も帰国時にできるかぎり被災地に足を運びたいと思っています。
編集部:菊地先生が最近読まれた本で面白かったものを教えてください。
菊地医師:星野富弘さんの詩画集を読んで感動しました。体育の教師であった彼は指導中に事故で脊髄損傷になってしまいました。手足が不自由ながらも筆を口にくわえて懸命になって詩や絵を描いています。星野さんの詩画集を読んでいると、「生きる力ってすばらしい、人間には計り知れない強さがあるんだ」ということを感じます。また、日本から定期的に送ってもらう医学書を読むのがとても楽しみです。最新の医療知識も得ていかなければならないと思っています。
編集部:座右の銘を教えてください。
菊地医師:「メビウスの帯」という概念が非常に面白いと思っています。数学のトポロジーという分野のひとつのモデルです。表裏の区別がつけられない、内側と外側の区別がつけられない曲面なのです。正しいと思っていることが実は誤りであるかもしれない、間違いだと思っていることが実は真かもしれません。次元を上げて考えることで問題の本質が見えてくる、解決につながる、固定概念にとらわれない自由な考え方の重要さを示唆してくれます。「メビウスの帯」が教えてくれているように、ひとつの見方にとらわれず相手の立場に立って考えることを心がけています。