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第五十四回ビジネス烈伝 / TASPlan 重田 清仁さん

大成建設のBPOでアジアにおける戦略拠点確立と人材育成を目指す

TASPlan President
重田 清仁さん

1962年神奈川県出身。横浜翠嵐高校を卒業後、父親と同じくパイロットを目指し防衛大学校へ進学するも、断念。上智大学へ入り直す。卒業後は大成建設に入社。95年、国際事業本部に異動後インドネシアを皮切りに世界各国を飛び回り、現在のフィリピンは7カ国目。2014年より現職。

〈座右の銘〉
開高健が語っていた「森羅万象に多情多恨たれ」という言葉です。諸々のことに常にビビットな感覚を持ちなさい、アンテナを張っていなさいという意味合いです。20年ほど海外におり、様々な土地や新しいものに出会ってきました。旅をしている感覚です。これからも常に目を見開いて感覚を研ぎ澄まして生きていたいですね。

世界を股にかけるような大きな仕事をしたいという思いを実現し、20年という長きに渡り海外で活躍を続ける重田さん。現在、フィリピンでは建設業におけるBPOという独自路線を指揮し、150名を束ねている。建設業務がスムーズに行えるように、裏方として常に気配りし、会社を支える大黒柱。オフのときも含め、バイタリティに溢れている。

 

 

編集部

 

大成建設に入社したきっかけは?

 

重田さん

 

大学時代に、世界を股にかけるような大きな仕事をしたいと思い、就職活動では建設や商社、造船などを回りました。そして、ご縁があって大成建設(TASPlanの親会社)に入社しました。 ただ、元々は父親と同じくパイロットを目指し、高校卒業後は防衛大学校へ進学しました。ですが、視力の関係でパイロット適性検査に落ちてしまい、パイロットの道を断念しました。親の反対はありましたが、防衛大学校は2年生になったときに退学しました。勘当同然に家を出て、読売新聞の新聞奨学生になり、世田谷区経堂の駅前の新聞屋に住み込みで働きながら、予備校に通いました。そして、上智大学文学部教育学科に入ることができました。その後親とも和解して自宅に戻り、四年間、それなりにキャンパスライフをエンジョイしました。ただ、遊びすぎてしまい、4年生でリクルートスーツを着たまま1年生と一緒に一般教養の講義を受けていました。サークルの後輩が「今日は授業参観なんですか?」と言ってきたりしましたね(笑)。

 

 

編集部

 

入社後はどのようなお仕事をされてきましたか?

 

重田さん

 

まずは東北支店で仙台に5年。そこで結婚して92年から東京支店に異動しました。当時はバブルもまだ残っていて、銀座に事務所がありましたから、とにかく毎晩飲んで歩いていました。土建屋ですので、やることが派手なんです。何世代かと問われれば、バブル世代といえるでしょうね。バブルのおいしいところを経験し尽くしました。ただ、当時はとにかく忙しかったですね。 東京の次は山梨の甲府建築作業所に異動しました。私は土木や建築のスペシャリストではなくて、事務系の経理や法務、総務などの細々とした裏方業務を担当していました。甲府に2年ほどいましたが、だんだん国内市場が縮小してくるので、国外の仕事をどんどんやろうという動きになってきました。どこのゼネコンもそのような流れでした。そのうちに海外でやってみないか、という話がきまして、大きい仕事をどうせやるなら海外でダムや橋を作るのに携わるのも良いなと思いました。そこで国際事業本部に95年に移りました。

 

 

編集部

 

ここから海外生活が始まるのですね。

 

重田さん

 

最初の赴任地はインドネシアで、そのときはゴルフ場2つとダムの現場を担当していました。ちょうどスハルトの政変の少し前までです。98年から2年間は日本で内勤をやっていました。
2000年からはインドネシアのバリで新しいプロジェクトが始まるということで、現場の立ち上げを任されました。住む場所を決めたり、工事の許可を取ったり、契約書を作ったりなどの業務を行いました。バリのきれいな夕日が見える宿舎に2カ月ほど滞在しました。毎日夕方5時にぱっと仕事が終わって夕日を眺めながらビールを飲むというちょっと優雅な暮らしをしていたところ、そのままインドネシアのジャカルタに残るようにと上から言われました。ちょうど日本で家を建てていたタイミングでしたので、赴任はするけれども家の引き渡しだけはさせてほしいとお願いして、引き渡しを受けて家族もそこに引っ越しさせて、「じゃあ行ってくるね」、と言って2000年からもう17年間ずっと海外にいますよ。ジャカルタには2000年から2006年までいました。大使館の新築工事などを見ながら、当時は現地法人が3つありましたので、その役員も兼務していました。ジャカルタでゴルフにはまりましたね。

 

 

編集部

 

インドネシアの後はどこの国に行かれましたか?

 

重田さん

 

インドネシアの後は、アフリカのジブチという国に行きました。ソマリアの隣の国です。そこに11ヵ月間で170室以上の客室と1,000人が入るコンベンションホールを持ったホテルを建てる、という無茶なプロジェクトを担当しました。その年の11月に北アフリカ会議という国際会議があるから、それまでに間に合うようにということで、大突貫でした。ジブチは本当に何もない国で、あるのは港と荒野だけでした。その昔、「猿の惑星」のロケ地にもなったような土地です。産業もほとんどなく、隣国のエチオピア向けの貨物の港湾利用料で生活している国でした。そんな何もないところに、いきなり5スタークラスのホテルを建てることになったのです。資材はほとんど全部輸入で労働力もエジプト人が何百人と必要でしたし、スリランカ人、フィリピン人もいましたね。その頃のスタッフとは今も色々なところで仕事をしたりしています。ホテルは何とか10ヵ月位で完成して、会議に間に合わせることができました。「ジブチの奇跡」と言われたプロジェクトです。 その次はUAEのアブダビに3ヶ月間くらいいました。ここにもフィリピン人はたくさんいましたね。とても暑い国でした。
その後日本に帰れると思っていましたが、今度はそのままエジプトに行って日本大使館の仕事をすることになりました。そこも突貫工事でした。エジプトに着いた次の日が日曜日でして、「明日は休みだからギザのピラミッドでも見に行ってきたら?」と言われましたが、それから4カ月間1度も休みがなく毎日働いていました。今だったらこんな突貫現場はゆるされませんけどね。あの時見ておいて正解でした。(笑)
それが終わり日本に帰りましたが、1ヶ月もしないうちに、今度はベトナムの南部に2~3か月出張で行くようにと言われました。東南アジアで近いし良いなと思っていました。
ところがいろいろあって結局ベトナムには2年半いまして、ごたごたが片付いたころ、次はアルジェリアへ行けと。日本に近づいたと思ったらまた遠くへ行ってしまいました。当時、家族には「リアル沈まぬ太陽」と言われてました(笑)。当時のアルジェリアは情勢はあまり良くなかったですね。外国人の行動が非常に規制されていて、移動には必ず憲兵隊が付いてきました。車が前後に付いて、真ん中のバスに乗って移動しなければならなかったです。高い塀に囲まれたキャンプの中に住んでいて、塀の角にある高い監視塔やゲートには銃を持った警備員がいました。イスラムの国ですから金曜日が休みなのですが、そんな状況なので何もやることがなくて、週に一度の休みの日の楽しみはバスに憲兵隊の警護をつけて近所の街まで買い物に行って帰ってくるくらいが関の山でした。外では自由に行動できませんが、中でレクリエーションを楽しもうということで、フィリピン人はバスケットコートを、日本人はテニスコートやフットサルコートを作りました。道路工事をしているのでコートを舗装するのはプロですからね。あと、ベトナム人やインド人は畑で故郷の野菜を作ったりしていましたね。私はバンドを組んでドラムをやっていました。日本に休暇で帰るたびにシンバルやスタンドを担いで持って帰ってきて、きちんとしたドラムセットを作りましたよ。

 

 

編集部

 

2013年のアルジェリア人質事件があったとき、現地で働かれていたのですか?

 

重田さん

 

現地で働いていましたが、アルジェリアは国土が広くて、南の方は砂漠地帯で、北の方は砂漠の方とは全く別の地中海に面した田園が広がっているようなところです。私たちが暮らしていたのは北側で、事件があったのは砂漠のチュニジア国境付近でした。事件が起きた後、東京ではみんなが心配してくださり、避難訓練や警備の見直しをしました。

 

 

編集部

 

アルジェリアでの暮らしはいかがでしたか?

 

重田さん

 

アルジェリアの辺は地中海マグロが取れます。漁師がたまに(禁漁期間で)市場に出せないような大物を取ってきてしまうと、「一本どうですか?」と電話がかかっきます。100キロほどのもので一本十万円位です。それを買ってみんなでキャンプで食べたりしていました。それからイスラムの国なので豚肉が手に入りませんでした。幸いアルジェリアからはスペインが近くて、休暇時に若いスタッフがスペインに行くときには、空のスーツケースとお金を渡して「これでハモンセラーノ1本買ってきて。」とお願いしました。そうするとスーツケースに足を一本入れて帰ってきました。生ハムの切り方はうまいですよ。だんだん面倒くさくなり、ベーコンみたいに厚切りにして食べていましたけどね(笑)。

 

 

編集部

 

フィリピンはいつ来られましたか?

 

重田さん

 

2013年になるとアルジェリアから日本に帰るように言われて、12月に帰りました。しばらく通勤電車に乗ってサラリーマン生活をしていました。2014年2月に、次はフィリピンと言われ、3月頭からマニラに来て、TASPlanで働いています。国にしたら7つ目ですね。

 

 

編集部

 

TASPlanの会社概要について教えてください。

 

重田さん

 

ざっくり言いますとBPOで、客先は主に大成建設および関連会社のみになります。大きく分けて、設計図部門、施工図部門、積算部門の3つです。 まず設計図部門は、大成建設の設計者が作成した図面を基に、詳細な図面や3Dの図面を作図するという作業をしています。
次に施工図部門です。施工図は、ごく簡単に言うと実際に建物を建てるときに現場で働く人が使用する図面です。これも2D、3Dがあります。それを作っている施工図部門というのがあります。フィリピンに来た頃はまだ二次元が主流で、紙の図面が基本でした。ですが段々と3Dになり、BIM(Building Information Modeling)というシステムができてきました。このシステムを使うと、1枚の図面ファイルに様々なデータを一緒に入れられます。お金がいくらかかるとか、工期がどれぐらいかかるとか、そういったものが1つのファイルに全部入るという、とても便利なシステムです。大成建設のBIMを推進している部門があり、弊社はそこの実務部隊です。
あとは積算部門があります。例えばビルを建てるというときに、大成建設はいくらで建てますか、〇〇建設さんはいくらで建てますか、と入札があります。その際に受け取った図面や条件書を見て、ここに必要なコンクリートの量はどれくらい、鉄骨や鉄筋はどれくらい、窓ガラスのサッシはいくつ、床材のフロアのタイルはいくつという計算を全部しないと、いくら掛かるか分からないですよね。その工事に必要な数量を見積もる作業をしているのが積算部門です。
大きく分けるとこれらの3つの部門になります。客先はほとんどが日本なので主に図面は日本語です。その日本語をフィリピン人が読んで、なおかつ何か分からないことがあったら日本側に日本語で聞いています。流ちょうに話せるわけではありませんが、フィリピン人スタッフはちゃんと日本語を理解しています。日本語の先生が毎日来て日本語のレッスンも実施していますので、かなり日本語が話せる人が多いです。

 

 

編集部

 

建設業でBPOの形をとるのは一般的ですか?

 

重田さん

 

ゼネコンの中でこういう形のBPOをずっと持っているのは、弊社以外にあまり聞かないですね。元々の会社は1992年からありまして、そのときはローカルとのジョイントベンチャーでしたが、2001年から大成建設100%出資の子会社になりました。2004年からは今の3つの事業内容で運営しています。それから最近は、多くのフィリピン人スタッフを出向で日本へ送り込んでいます。日本語が話せるので日本の本社や作業所で、社員と机を並べて一緒に仕事をしてもらっています。

 

 

編集部

 

過去にTASPlanが手掛けた案件はどのようなものがありますか?

 

重田さん

 

フィリピン国内はありませんが、具体名を挙げるのは控えさせていただきますけれども、日本国内外の都市にあるみなさんもご存じの大きなビルなど、幾つも手掛けていますよ。

 

 

編集部

 

TASPlanに日本人スタッフは何名いますか?

 

重田さん

 

私の他に、常勤が2人、非常勤が1人で、あと現地で採用している日本人が1人います。(*取材当時) あとは全員フィリピン人です。

 

 

編集部

 

大成フィリピン建設はTASPlanと別会社ですか?

 

重田さん

 

よく聞かれるのですが、大成フィリピン建設は大成建設とローカル企業とのジョイントベンチャーで、TASPlanとは別会社です。大成フィリピン建設はフィリピンで実際に施工を行っています。

 

 

編集部

 

これまで事務系(経理や法務、総務などの業務)を担当してこられたとのことですが、重田さんのお仕事は具体的にどのような内容でしたか?現在も含めてお聞かせください。

 

重田さん

 

Facebookのチェック(笑)。というのは冗談で、現在は社長兼管理部長のようなことをしていますので、経理などの事務系のものは全部管理しています。元々建設会社の事務系社員は、実際に図面を描いたり、職人に指示して建設したりということではなく、現場がスムーズにいくための業務がメインです。お金を用意して支払いをしたり、業者と契約を交わしたりして、交渉力や法律の知識などを駆使して建設の仕事がスムーズに動くように裏で色々と手を回すという、外からは見えない部分の仕事です。お膳立てと言いますか、そういう仕事が性に合っていると思います。ゴルフのコンペの幹事はするけれどもニアピンもドラコンも取れないというのに似ているかも(笑)。
それから、現場の雰囲気作りも大事な仕事の一つです。建設のキャンプで5年間とか詰まっていると、やはり気が滅入ってくる人も出てきます。そのようなときには、楽しみを見つけ出すのが大事ですね。例えばマグロパーティーやハモンセラーノの食べ放題をしたり、寿司を握ったり、そばを打ったりして、お楽しみ係のように色々と企画することが多かったですね。ジブチのときも若い人がたくさんいて、みんな本当に退屈していて「重田さん、今度何やってくれるの?」という話になり、ラーメンを作ろうとか餃子作ろうとか、色々企画を立てて盛り上げてました。野球部の女子マネージャーみたいですね。それを30年間、続けています。

 

 

編集部

 

フィリピンで事業を行う魅力は?逆に心配点は?

 

重田さん

 

この業態でのメリットは人材が豊富なところです。人を集めようと広告を出せば、それなりに応募者が集まります。日本を好きな人が多いこともあり、レベルが高く真面目な人を確保しやすいです。もちろん、英語が話せることもメリットです。
逆に悩みの種は離職率の高さです。様々なスキルを身に着けて一人前にになったところで転職してしまうことがあります。これは各社さん共通の悩みだと思います。引き止めるためというわけではありませんが、先ほども述べた通り弊社では半年ほど日本へ出向させたりもしています。それはフィリピン人スタッフにしてみると魅力的です。日本に行けば手当がもらえて、それをフィリピンの家族に送る人もいれば、お金を貯めて最後に一眼レフやパソコンを買って帰ってくる人もいます。若いスタッフには、もう少しスキルが上がれば、先輩みたいに行けるから、と言ってモチベーションを上げています。私たちの財産はスタッフなので、育てたスタッフをいかにキープするかが重要です。

 

編集部

 

多くのスタッフが日本語が話せるということでしたが、最初から日本語ができる人を雇っているのですか?

 

重田さん

 

そういうわけではありません。もともと日本語ができる人はほとんどいません。
採用をしていて感じることは、やはり日本好きな人が多いですね。中にはオタクみたいにアニメやフィギアが大好きという人もいます。

 

編集部

 

作図する上で日本人との違いは何かありますか?

 

重田さん

 

スキルの面では100%同じとは言えませんが、日本人スタッフがしっかり付いて品質管理をしていますので、遜色ないものが出来上がってきていると思ってます。

 

編集部

 

TASPlanでは、今後どのような展開を計画されていますか?

 

重田さん

 

今、日本は人手不足でスキルを持った人が求められています。ですので、日本で活躍できる人を多く育てていきたいです。また、近隣のタイやインドネシアなどの国でも、同じように施工している仲間がいます。そのサポートが出来るような体制作りです。大成建設の国際事業における、アジアの戦略拠点の1つにできればと考えています。

 

編集部

 

休日はどのように過ごされますか?

 

重田さん

 

土日はヘタなゴルフがメインで、他には本を読んだり、暇さえあればテレビを見ていますね。以前、海外にいるときはNHKワールドが見れれば御の字でしたが、今はインターネットテレビが普及していて、どんな番組でも遡って見られます。こんなに便利なものがあれば、世界中どこでも暮らしていけそうです(笑)。
私は常に情報に敏感でありたいと思っています。色んなことを知っている、物知りなおじさんです。この年になると自分から仕掛けてどうこうする歳でもないですが、若い人とも付き合いながら情報交換をしています。彼らと情報をやりとりするのが楽しいです。以前はそんなこともなくて、自分から行動していたのですが、フィリピンに来てから少し落ち着いて、若い後輩たちや全然業種が違う人たちと会って、色んなことを一緒に楽しんでいます。隠居みたいですけど、プライベートの時間はそんな感じですね。

 

編集部

 

最後に、重田さんご自身の今後の展望や夢などは?

 

重田さん

 

フィリピンには長くいたいですね。若い人たちと接して、彼らの夢を手助けしてあげたいです。金銭的には難しいですが、人生の先輩として助言したりしてサポートしたいです。それから、仲間と一緒に旅行とかに行って、ヤシの木の下で寝転がりながらビールを飲んで暮らしたいですね。あとは、ゴルフをもう少し上手くなりたいですね(笑)。

 

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